不連続的差異理性教育と知性・技術教育

[教育][叡智学][経済] 不連続差理性教育と知性・技術教育

前の考察から、教育は少なくとも二種類必要である。今日、欠けているのは、理性教育である。しかし、これは、表面・皮相的にとれば、反動的になりたいへん危険である。今日の新保守主義になりかねない。だから、理性とは、差異理性、特異理性、とりわけて不連続的差異理性であることを確認しないといけない。簡略して、差理性とでも呼ぼうか。とまれ、特異性に基づく理性教育が必要であり、それは、特異性のもつ強度、共感性、能動性等を生成/発展/陶冶させていくこととなる。また、それと同時に当然、知性・技術教育がなされなくてはならない。

補足:差理教育とは、特異性によるのだから、当然、身体性、身心(心身)性が入るのである。体育であるが、それは、差理性的体育と知性・技術的体育があるだろう。

補足2:カントの純粋理性とプラトンイデアが結びつき、また身体化(スピノザニーチェドゥルーズ化)されることで、強度(身体的強度)をもち、理念・理性的(内在倫理)強度を形成し、そして、不連続的差異論から、不連続的差異化される差異理性、特異理性をここでは述べていることとなる。だから、特異差異強度理性あるいは不連続的差異理性とまとめられよう。用語を簡略化して、差理性とするのである。

補足3:ハイデッガーの存在とは、強度的理念ないし理性のことではないだろうか。ほぼ差異的イデアと言えるのではないだろうか。しかし、不連続的差異と存在はどう違うのだろうか。それは、特異性の有無、あるいは、連続/不連続性の有無にあるのではないか。簡単に言えば、ハイデッガーの存在は、連続・同一性的ではないか。そして、ドゥルーズは、ベルクソンの連続差異多様体ハイデッガーの連続・同一性的存在によって、差異=微分を基礎にしてしまったと言えるのではないか。不連続性/特異性、連続性/同一性はまったく別個の概念である。思うに、ハイデッガードゥルーズの誤りは、強度をどう捉えるかにあったように思う。連続的強度にするのか、不連続的強度にするのかである。かれらは、前者にしてしまったのであり、樫村晴香氏の批判はまったく正鵠を射ていたのである。ならば、差理性では言い方としては、きわめて不十分、不適切、不的確である。やはり、不連続的差理性ないし不連続差理性と言うべきだろう。連続的差理性は連差理性、不連続的差理性は不連差理性としようか。あるいは、単に連差異(連続差異)、不連差異(不連続差異)でもいいだろう。

p.s. 以上を経済に適用すると、資本主義は、連続差異価値経済であり、脱/ポスト資本主義は、不連続差異価値経済である。後者により、資本主義のもつ反動暴力性が乗り越えられるのである。不連続的差異的共存共生創造の平和主義経済が発動するであろう。連続差異/資本主義的戦争経済から、不連続差異/共存共生創造的平和経済へ転換すると言えよう。

p.p.s. ある意味で不思議ではあるが、不連続的差異性を原基・原点として自覚すると、個と個との真の「連帯」が生起するのである。たとえば、少し不謹慎な言い方ではあるが、地震や大災害によって、人々のつながりが生まれることと同値である。普段は連続的共同体で、互いにいがみ合って生きているが、いったん、不連続的個体となると、つながりが生まれるのである。ところで、新潟中越地震といい、スマトラ沖大地震といい、これは、不連続的差異の「連帯」を喚起しているだろう。それは、人間と人間との「連帯」だけでなく、人間と自然との「連帯」でもある。ここで、ヘルダーリンの『ヒューペリオン』の中で、人間と自然との神聖な連帯を高貴崇高に高唱絶唱予言していることを想起する。とまれ、不連続的差異の「連帯」である。

3p.s. パレスチナ問題も、いったん不連続的差異化した方がいい。ユダヤ教イスラーム教も不連続的差異論で、いったん脱構築/解体して、それから、和平を考えることができるのではないか。結局、万事、不連続的差異論的還元をせよ!

4p.s. 当然、キリスト教も不連続的差異論的還元が必要である。思うに、仏教は、本来、不連続的差異論的還元性・脱構築・解体性をもっていたが、それが、連続化されてしまって、超堕落したと言えよう。仏教も不連続的差異論的還元をしないといけない。

5p.s. だから、宗教に関して言うと、不連続的差異論的還元的宗教が新たに考えられるだろう。不連続的差異論的還元によって、各宗教は和解することとなるだろう。


[叡智学] 理性と知性について:資本主義経済から差異理性主義経済へ

 自然科学は、理性の学か、知性の学か。あるいは、一般に、科学は、どうなのか。それとも、理性と知性は同じものなのか。おそらく、絶対的には分離できないとは思うが、それでも、区別される概念であると思う。知性はカントの悟性に近いだろう。すなわち、感覚に即した観念性のことである。そして、理性は、理念や精神に関係する観念性であろう。すると、自然科学は知性の学であろう。近代合理主義とは、近代的知性中心主義である。すると、やはり、近代・現代は、知性優先で、理性が弱化した時代であると言えるだろう。資本主義のもつ利潤追求衝動が、知性と結び、理性を駆逐してきたと言えるだろう。とまれ、理性とは、価値基準に関することであり、人間、自然、社会の原理に関するものである。たとえば、民主主義は、知性ではなくて、理性に関わる事柄である。
 ここで、資本主義と民主主義の発生を考察してみると、前者は、たとえば、フランス革命等を通して、後者の理念を装いにして、封建制を破って、進展したと言えるだろう。そして、現代、資本主義体制は、後者を秩序の原理として標榜している。前者が後者をいわば建前としている。そして、実際、政治家等は、後者をイデオロギーとしている。つまり、欲望的知性が、理性を騙(語)っているのだ。これは、近代的自我のあり方に問題がある。近代的自我とは、いわば超越的自我であるから、自我の理想と同一化しているのである。つまり、この場合、民主主義的観念(実質ではなく)と同一化しているのである。しかし、近代的自我とは、内在的倫理を欠くものであり、反動的な自己中心性をもつのである。つまり、近代的自我とは、自己欺瞞、独善化の構造をもつのであり、その理想の民主主義とは、自我的欲望と一体であり、自我的欲望が民主主義的理念に自己陶酔的に同一化している、あるいは、それへと自己暗示をかけているのである。つまり、反動暴力的な自我欲望の反民主主義的なあり方が、民主主義という理想・観念と同一化して、民主主義を詐称し、自己欺瞞化して、独善化しているのである。
 ということで、資本主義と民主主義とは、アンチノミー(二律背反)的な側面が強いのである。そして、前者が発展拡大すれば、当然、後者はますます弱化すると言える。というか、前者は、ますます倒錯的に、反民主主義化し、全体主義になっていくと考えられる。この典型がアメリカや日本である。ここでは、近代的自我、近代的合理主義、資本主義がいわば三位一体となり、似非民主主義・反民主主義を形成しているのである。狂信的な、恐怖の理性の眠りがある。
 しかし、資本主義内部に、脱資本主義の強度があると言えよう。反民主主義的あり方に対して、民主主義的理性が抗議するのである。そして、この理性は、理性強度(カントの実践理性)は、近代/自我/知性/資本主義というパラダイムを批判して、差異理性主義という新しいパラダイムを指向すると言えるだろう。社会主義は資本主義への反動であった。これまでは、自我欲望的経済であったが、これからは、差異理性強度をもつ倫理的欲望の経済を目指すだろう。差異理性欲望経済である。それは、差異共生成経済である。

p.s. 民主主義=差異主義である。

p.p.s. 差異理性とは、差理性と言えるだろう。不連続的差異論は、不連続的差理論とも言えるだろう。