差異潜在・内在受容と差異共与経済

[経済] 差異潜在(内在)需要と差異共与経済

課題・テーマ
1. 差異潜在需要ないし強度需要と有効需要
2. 物質主義経済と物心平行主義経

 まず、1.について検討しよう。私の考えている潜在(内在)需要あるいは強度需要とは、根本的には不連続的差異論を基礎とするものである。それは、いわば物心不可分の自己/他者共創存理論であり、ここを基礎とした差異潜在需要ないし強度需要である。だから、根源・本源的需要である。それに対して、有効需要とは、貨幣/商品/資本を中心とした物質主義的自我欲望をベースにしたものと考えることができよう。
 次に、2.についてだが、不連続的差異論から見ると、物質主義経済とは、自我ないし近代的自我の経済であり、自己中心主義的であり、物心平行主義経済とは、経済と倫理とが不可分の関係にある経済である。この場合、倫理が問題になる。ここでは、あくまで、内在的倫理と考えなくてはならないだろう。あるいは、共創存の倫理と考えるべきであり、父権的な道徳観の善悪二元論の倫理ではない。
 ということで、私が先に用いた有効需要という言葉は、差異潜在需要ないし強度需要と読まれるべきである。


貨幣問題

 差異潜在需要あるいは強度需要を前提とすると、貨幣・通貨はどうなるだろうか。同一性の交換(一般価値交換)から、差異の「交換」の手段となるだろう。そして、同一性貨幣(法定貨幣)ではなくて、差異通貨があるとしよう。これは、差異的特異個体が発行する主体となるだろう。しかし、実質的に見て、この差異通貨を成立させるためには、差異通貨共存体が必要となるのではないか。そして、差異通貨銀行のようなものが必要となるのではないか。ここで、イスラーム銀行他が参考になるように思える。今日、市民バンク他があるが、それらも参考になるだろう。また、地域通貨コミュニティもそれなりに参考になるだろう。とまれ、差異共創共存経済のためには、そのような生産共存体、通貨共存体、消費生活共存体が必要のように思える。私はこれを、共同体、連合体とは考えない。なぜなら、それらは、連続的集合であり、反動化するからである。あくまで、差異、不連続的差異に基づいた共存体・共生体を考えるのである。
 さて、ルドルフ・シュタイナーは、経済連合体(アソシエーション)において、価格問題が重要となると述べている。(もっとも、経済連合体は、連続体であるので、私は採用しないが、参考にしたいのである。)差異共存経済体において、確かに、物心的生産物の差異的価値の「交換」における価格が問題になるのかもしれない。もし、そうならば、それは、差異共存体の価格設定が基準となる。私見では、ここにおいて、現在の理不尽な為替レートなるものが解消されるのではないかと思う。差異共存体、この場合、インターナショナルな差異共存経済体が、世界の勤労者の差異的価値を認めて、差異的「交換」を、差異的価格を通じて、行うのではないだろうか。とまれ、ここには差異の普遍化があるだろう。そう、差異的通貨とは、結局、差異潜在・内在価値をもち、現在の通貨のような固定価値をもたない。それは、差異的「交換」を通じて、現実化すると言えるだろう。つまり、差異潜在・内在価値とは、現実的にはゼロ、無である。しかし、それは、強度をもっているのであり、現実の差異的「交換」において、価格をもつのではないだろうか。あるいは、虚数の価値と言えるのかもしれない。これが、実際の「交換」において実数の価格となる。たとえば、Aさんが、1000i差異をもっているとしよう。これは、虚数であるから、現実には無価値である。しかし、Bさんの所有物と「交換」するとしよう。そのとき、1000差異となると言えるのではないだろうか。可能性としての差異価値である。アリストテレスの用語を使えば、デュナミス(可能態)としての差異価値である。それが、実際の「交換」において、エネルゲイア(実現態)となるのだろう。
 さて、「交換」であるが、これは、コミュニケーションの一つであり、また、表現・エクスプレッションの一つであろう。これをなんと呼ぶべきか不明であるが、共流、共交、共支援とか言えるかもしれない。ひょっとしたら、贈与の一種かもしれない。共贈与、共生贈与かもしれない。ならば、差異共与となる。共与である。ならば、共同体の贈与ム互酬制とどう違うのか。共同体の場合は、主体は差異ではなくて、連続体である共同体の一員であり、贈与は強制的、義務・義理的である。それに対して、差異共存経済体においては、主体は不連続的差異的個であり、共与行為とは、自主・自発・自由的に為されるのである。スピノザのコナトゥス、カントの実践理性、イデア界的強度による共与行為である。すると、ここには、共与経済が成立することとなろう。差異共与経済である。


[経済][備忘録] ケインズと差異共創存経済:超資本主義

「総需要は,消費と投資という二つの部分に分けられる。いま,人々の消費性向が変わらないとすれば,雇用量が増え,所得が増えるにつれて消費は増大するが,所得ほどには増えない。したがって所得が増え,所得と消費の差つまり貯蓄が増えるのにつれて自動的に投資が増えないかぎり,需要曲線は供給曲線を下回る。そこで,投資水準が与えられると,それに応じて所得したがってまた雇用の水準が決まるというのが《一般理論》の基本的な考え方であり, 〈貯蓄に等しい投資が自動的に生み出される〉とか, 〈供給はそれ自身の需要をつくり出す〉という意味での〈セーの法則〉を否定したところに,その特徴がみられる。
 投資が増加すれば総需要が増大し,需要曲線が右上方に移動することになり,需要曲線と供給曲線の交点は右上方に移り,雇用量は増大する。このとき,最初の投資の増加に対して数倍の所得の増加が生ずる。これが乗数効果である。
 ところで,投資は資本の限界効率と利子率によって決定されるが,資本の限界効率は企業家の,将来についての〈期待の状態〉〈確信の程度〉に依存して浮動する性質をもち,これが景気を左右する。このように〈期待の状態〉が経済活動に決定的な影響をもたらすことを明らかにしたのが, 《一般理論》のいま一つの重要な特徴である。
 さらに,ケインズは,貨幣の役割を重視して,貨幣のように流動性が高く,しかも持越しに費用がかからない資産が存在するために,利子率や資本の限界効率が一定水準以下になると人々は資本や債券よりも貨幣の保有を選ぶようになり,投資が阻害され,その結果,景気が停滞する可能性を明らかにした。これが,〈流動性のわな〉とか〈ケインズのケース〉と呼ばれる現象である。
 このように《一般理論》は,失業の問題の解明に大きな光をあてたが,価格の問題には必ずしも十分な注意が向けられなかった。また,長期的なストックの問題よりも,短期のフローの分析に主眼が置かれた。その結果,1970 年代に入ると,現実面でのケインズ的な政策の行詰りもあって,ケインズの理論に対する批判 (たとえばマネタリズム) が高まり,反革命の動きが強まっている。」
雇用・利子および貨幣の一般理論」の項目から
(ネットで百科@Home)

上述の「期待の状態」であるが、私に言わせると、長期ヴィジョン投資におけるものとなりうる。これは、差異共創共存社会の企業家のそれである。このような長期ヴィジョン投資によって、有効需要は喚起され、超不況から脱せられるだろう。問題は、差異共創共存社会、差異民主主義経済という長期ヴィジョンをもち、これを実践することである。これにより、人々は、購買力を増加させて、経済は活気を帯びるのである。ケインズは生きている。ただ、長期ヴィジョン投資思想がないのである。差異共創存経済というヴィジョン投資を実施すれば、貯蓄率は下がり、経済が活性化するのである。

p.s. つまり、差異が共創共動し、共存・共生する未来のヴィジョンという「期待の状態」が、資本主義を超えた新経済、いわば超資本主義への有効需要を発動させると考えられる。