近代的自我と民主主義:欲望と倫理

[政治][社会][経済] 感性主義と理性主義:近代的自我と民主主義

 現代において、個人の諸欲望を中心に社会は動いているだろう。これは、ほぼ自我的欲望である。しかし、個人においては、その他、社会的、倫理的「欲動」ないし強度があるだろう。そして、民主主義においては、本来、後者と民主的観念・理念が結びつくはずである。しかし、経済生活は、資本主義中心である。それは、個人における諸欲望を喚起する宣伝等のシステムをもっている。だから、これは、ある意味で他者の欲望である。資本主義的経済という他者の欲望を個人が反復することになっていると言えるだろう。これは、貨幣/資本の欲望である。ということで、個人において、1.自我的欲望である貨幣/資本の欲望と2.社会/倫理的「欲動」・強度が併存することとなる。さて、資本主義が発展すると、個人において、1.の要素が増大・拡大するだろう。今日では肥大と言っていいだろう。すると、当然、2.の要素が忘失されるようになり、個人は欲望/理性的人間から、欲望中心的人間へと変容する。つまり、「理性の眠り」、理性の溶解が生じるのである。(これは、政治家や権力者に顕著であることは言うまでもないし、多かれ少なかれ、一般の人もそのような傾向をもつのである。私にもある。)
 さて、ここで、所期の問題を考えよう。感性主義は、資本主義の爛熟状態にあって、欲望中心主義と結びつきやすい。感性的欲望であり、欲望的感性である。ここでは、理性的倫理、倫理的理性が忘失される傾向があると言えよう。ここで、自我を考えると、それは、共感性を否定・棄却する傾向があるから、欲望的自我は、本来、共感性や倫理を亡失する傾向にあると言えるだろう。つまり、まとめると、近代的自我+諸欲望+資本主義によって、理性、倫理、民主主義、共感性等の「理性主義」が喪失すると言える。つまり、後者は形骸するのである。そして、現代がそれである。結局、形骸化した「理性主義」があり、そして、肥大化した自我欲望主義がある。だから、当然、政治がもっとも悪化すると言えよう。政治が、権力の中心であるからだ。すると、政治は、自我欲望中心に、没理性主義的に政策を形成して、実行するのである。つまり、「狂気」の政治となるのである。これは、自我欲望主義であるから、同一性を指向するのであり、政治の同一性化とは、全体主義にほかならない。(民主主義とは、差異主義である。私論で言えば、不連続的差異主義である。理性は不連続的差異に宿ると言えよう。)資本主義は全体主義への指向をもつと言えよう。だから、資本主義の破壊的作用に対して、創造的作用を起こす必要があるのである。前世紀までは、社会主義共産主義が、資本主義に対抗したが、それは全くの反動であった。脱資本主義とは、差異的強度の新生に基づき、民主的経済、私見では、差異共創共動経済(差異共創動経済)へと指向することである。欲望と倫理との協調・調和的併存を目指す経済である。スピノザは、コナトゥス(自己保存衝動)と言ったが、正にコナトゥスとは、欲望と倫理との不可分的衝動である。そして、倫理を保証するものが、不連続的差異論という新イデア論なのである。もし、差異的イデア界が前提とされなければ、倫理は、主観的として、知性から無視されるだろう。カントの実践理性とは、道徳とは、このイデア界からの強度のことである。イデア界と現象界が結び、新しい差異共創共存経済が出生するのである。


[政治][社会] 反動の時代について

 NHKの番組への痴眠倒の背痔蚊介入、シンタクロース都知事による都立大等つぶし、そして、単純一郎内閣の問題等々、・・・反動化=全体主義化がすさまじい。私はこれをいわばミクロ的に考えたい。私自身も、批判性をなくしたときは、感情的に判断していた。そう、感情性がこの反動化の基盤にあると思う。原理原則をなくし、感性・感情で判断するということである。つまり、ここには、原点喪失があるのである。民主主義とは何か。日本国憲法とは何か。近代とは何か等々の、原点が政治家や人々に失われているということであろう。資本主義的生活による理性の麻痺があるのだと思う。思えば、近代とは、二重である。資本主義と民主主義の二重性である。しかし、前者が後者を飼いならしてきたと言えよう。理性の溶融がある。そう、これは、近代ロマン主義の帰結ではないだろうか。個の感性主義。それは、利己主義と結んでしまうだろう。民主主義とは、批判主義であり、理性主義である。しかし、資本主義は、感性主義、ロマン主義であろう。啓蒙主義は、今消えているのだ。では、このベースは何なのか。思うに、特異性としての個の自覚ではないだろうか。つまり、不連続的差異論から言えば、差異としての自覚である。ここに民主主義、批判主義、理性主義の原点があるのではないだろうか。つまり、イデア論である。イデア的差異としての人間の自覚である。この差異性の喪失から、反動化が起こるのだろう。差異ではなくて、自我という同一性になっているのである。ここでは、自我は国家と結びつくだろう。なぜなら、自我を保障すると思えるものが国家だからだ。

p.s. ロマン主義を否定的な面が以上に出ているが、それは一面的である。ロマン主義啓蒙主義とは、紙一重である。思うに、前者が堕落すると、反動化するのだろう。

p.p.s. ロマン主義啓蒙主義、あるいは感性主義と理性主義等に関して、別稿で検討しよう。