超自我について:柄谷行人批判

[叡智学] 超自我について:柄谷行人批判

超自我について

 柄谷行人は、日本国憲法第九条を、日本人の超自我によって受け入れられているものと考えているようだ。そして、超自我とは、フロイトの説く通り、良心や道徳として捉えられている。私が問題にしたいのは、人間の攻撃衝動を超自我によって抑制しているのかということである。私見では、超自我とは、善悪二元論の二項対立(物事の優劣性)を形成するものであり、人間の攻撃性は昇華されてはいないというものである。つまり、攻撃衝動が超自我へと変質したのではあるが、攻撃性は残っているのである。すなわち、「道徳」的攻撃性に変容したのである。これは、また、イデオロギー的である。例えば、キリスト教原理主義によれば、民主主義ではない、フセインイラクは悪ということになり、それは、攻撃されるべき対象となるということである。そして、とりわけて、キリスト教は、この超自我的攻撃性が強烈であると考える。ということで、簡単ではあるが、超自我によって攻撃衝動を昇華したとする柄谷説には、承服できないのである。

 ここで、私説を言えば、これまでのことを反復することとなるが、超自我とは、父権制的文化である。それは、善悪二元論的であり、イデオロギー的である。これは、戦争主義的である。そこで、否定・棄却された母権的共感性、多神教性、差異共存性、メディア界性(不連続的差異論の用語)を、新生、回復、復活すべきなのである。いわば、たましい、こころを取り戻すことである。超自我イデオロギー道徳ではなくて、個的な共感倫理を取り戻すことである。これは、脱イデオロギー化である。

p.s. 憲法第九条を日本人が受け入れているのは、それは、日本人の超自我ではまったくなくて、日本人の「たましい」、「こころ」が受け入れているのである。つまり、日本人の多神教・母権的共感性が受け入れていると思う。柄谷氏は、研究者的に、アカデミックに考えていて、つまり、頭でっかちに考えて、日本人の「心魂」をまったく理解していないと思う。きわめて、皮相な見方をしていると思う。批評家としてもう御陀仏であろう。

p.p.s. 政府の改憲論であるが、それは、アメリカ帝国主義の一環である。アメリカは、お馬鹿な日本政府を利用して、アメリカの軍国主義の一環を担わせたいのである。

cf. 『「一九四五年」と「二〇〇五年」:自由主義帝国主義・対抗思想・そして憲法第九条』柄谷行人著 『世界 特集:戦後60年 どんな転換点なのか』所収 pp. 88~91 岩波書店)