身体と精神;差異と強度

[不連続的差異論] 身体と精神:差異と強度


先に、身体をメディア界として、自我の発生を考えた。そのとき、不連続的差異を掩蔽するものとして自我があった。そして、不連続的差異に精神を見たと言えよう。ならば、身体と精神は同じものとなるだろう。ここで、作業仮説したい。イデア界の境界が精神になると仮定しよう。そして、差異が身体になるとしよう。すると、連続的同一性=自我とは、境界=精神が疑似零度になって、差異が疑似連続化した状態と言えるだろう。そして、いわば、この境界と差異との癒着によって自我/身体が成立すると言えよう。だから、感覚は本来不連続的でありながらも、同一性として捉えられ、それが、言語化されると言えよう。境界疑似・擬制零度が、連続的同一性=自我の根拠である。
 では、精神とは何ぞや。それは、自我ではありえない。それは、本来、イデア界の境界である。差異と差異との境界である。つまり、差異共存の「力」である。というか、境界そのものである。差異と差異との距離である。だから、精神とは、不思議なもので、差異と差異とのバランスを取るものである。私が共感性と言ったものは、精神の感情的側面であろう。そして、差異と差異との中間としての「知性」である。これが本来の理性である。だから、精神が未発達な自我の場合、自我による連続的知性が主体となり、それは暴力的となろう。これが、権力の原因である。そして、近代合理主義といわれたものもこれである。では、カントの超越論的形式とはどのようなものか。これまで、連続的同一性として説明したが、今や、それは、境界疑似零度における自我=連続的同一性のことであると言えるだろう。疑似零度の連続的同一性である。だから、擬制であり、差異/境界といういわばマイナス強度が存在しているのである。つまり、境界疑似零度の自我=連続的同一性とは、差異/境界というマイナス強度であることに対蹠しているのである。後者が、いわゆる無意識であるが、女性は、これが掩蔽・隠蔽されずに開いていると言える。そう、カント哲学の問題は、この差異/境界をどのように処理するかであったと言えよう。しかるに、超越論的知によって、純粋理性批判によって、アンチノミーとして処理しようとしたのである。しかし、差異/境界はプラトンに戻らなくては解決できない問題である。差異/境界とは正にイデア界であるからである。イデア界、イデアを仮定して、この問題に答えることができるのだ。純粋理性ではなくて、純粋理念ないし差異を仮定することである。カントは、超越論的仮象にとどまった。超越論的形式主義ないし超越論的悟性(知性)主義に立っているからである。そして、生の哲学現象学が差異/境界の問題を対象とした。そして、ドゥルーズによって、差異/境界の一歩手前にやってきたが、即自・連続的差異に囚われていまい、差異/境界の天国の鍵を握り開けることはことはできなかったのだ。そして、不連続的差異論がエデンの園を再び開門したのである。また、神沢昌裕氏のアポスターズ論も同様だと思われる。(参照:http://novalis666.ameblo.jp/?bid=novalis666
とまれ、以上で、身体と精神の問題に答えたこととしよう。


p.s. スピノザの心身平行論は、以上のように考えると、的確なことがわかる。精神は差異境界であり、身体は差異である。私は差異=知即存在と言ったが、ならば、精神とは、多元的知即存在であり、差異と差異とのバランスである。