差異資本とは何か;試論1

[差異資本論] 差異資本とは何か:試論1


個体が、自我ではなくて、差異的個であるためには、差異的強度がなくてはならない。それは、個体内のゆらぎに存するものである。差異/境界の存在に発する。つまり、個体内のメディア界に臨むイデア界の存在である。すなわち、差異的個体とは、メディア界的ゆらぎもち、イデア界に接しているのである。
 では、差異資本といったとき、それは何を意味するだろう。資本が連続的同一性化された価値の総合ならば、それが、差異的個体によって所有されたものを差異資本と呼べるだろう。差異資本が、連続資本の支配する中で生き延びるためには、差異資本を活用しないといけない。そのためには、新しい価値を生む経営が必要である。それは、差異価値と差異価値との連結による新しい価値の創造である。この差異連結のためには、アイデア・発想力が必要である。これはどこから来るのかというと、差異的個体の差異/境界ないしメディア界からだろう。それは、差異と差異との連結が、いわばお得意のものである。新しい差異連結が、この差異的個体にとっては、歓喜・喜びである。だから、差異資本をもつ差異的個体は、差異資本の展開として、差異的連結によって、新しい価値を創造せんとするのである。いわば、差異資本の「アレンジメント」、「リゾーム」である。従来にない、差異資本の創造的展開である。これは、また、差異資本と差異資本との連結とも言えるだろう。もし、一方だけが、差異的個体で、他方が連続的個体ならば、連結できないだろう。たとえば、差異的個体であるホリエモンと連続的個体である日枝会長の場合のように。
 ということで、粗略であるが、差異資本は差異的個体のもつ資本であり、その展開は差異資本と差異資本との連結という形態をとることがわかった。だから、これは、差異資本主義として、旧体制の連続的資本主義とは異質なものである。新しい資本主義である。この差異資本主義は、思うに、差異をベースにするのだから、理論的には、差異民主主義を指向するはずである。差異資本民主主義である。これこそ、とりわけ初期マルクスが思い描いた「共産主義」ではないだろうか。とまれ、徹底して、差異主義であることが必要である。