精神空間について:自我の否定する特異性

感情とは何だろう。これは、わかっているようでいて難しい。傲慢な人物の言葉は、トゲがある。毒がある。この感情伝達を問題にしたいのである。これは、精神の暴力である。これを哲学したいのである。このことは、何百回も反復して、ほぼ答えは出たのであるが、ここで整理してみよう。
 連続的同一性である自我は、差異を掩蔽・隠蔽するような自己形成をもつ。この時の反動能動性が、暴力となるのである。ルサンチマンとなるのである。ここには差異の自我的癒着があるのである。精神の側面が隠蔽されるのである。連続同一体である自我は、差異、精神を排出するように内に隠蔽しているのである。この動きが反動能動力である。連続的同一体を生起させるプラス強度である。これは、ルサンチマンとなるのは何故か。つまり、この自我とは全一的連続欲望をもつのである。すなわち、一神教的、独裁的、全体主義的欲望をもつのである。ヤハウェ欲望と言ってもいいだろう。父権欲望と言ってもいいだろう。簡単に言えば、すべて自分のものにしたいのである。独占欲である。だから、他者を羨望し、嫉妬し、反感し、憎悪し、侮蔑し、等々のルサンチマンを形成するのである。自己中心主義である。父権的権力欲望である。
 ということで、この自我は、陶冶されていない場合、おのずから暴力・傲慢的なのである。他者を無化せんとするのである。とりわけ、己より優れているものに対してである。そう、これをニーチェが天才的に『道徳の系譜』で洞察している。ということで、自我欲望は自然的に暴力・傲慢なのである。典型が政治家等である。そして、自我は、とりわけ特異性の強度(マイナス強度)に、反感をもつのである。特異性・差異の強度が、自我のプラス強度を解体しようとするからである。では、どうして、マイナス強度である女性を攻撃しないのだろうか。それは女性のマイナス強度とは、プラス強度で装われていて、いわば、未発達だからである。それに対して、特異性・差異の強度は、剥き出しで、連続的同一性を解体するのである。