差異とゆらぎ:身体と特異性:IT化と差異市場経済

[不連続的差異論] 差異とゆらぎ:身体と特異性:IT化と差異市場経済


問題は、差異を明確に定義することである。イデア界に複数の不連続的差異があり、それが、メディア界を経て、連続的に現象化する。現象的個体性が形成される。現象的個体とは、自我的であり、同一性的である。私と他者との反動的な区別がある。すなわち、自我とは、言語的同一性、一般形式と結びついている。カントで言えば、超越論的形式の規制を受けた個体である。これが、またヘーゲル的観念性である。また、マルクスの価値形態論性である。だから、自我とは一般形式であり、特異性、差異ではないのだ。言語形式的個体性である。代替可能な個体である。生命保険の額の対象になる個体である。貨幣形式をもつ個体性である。疎外された個体である。
 では、個体において、差異、特異性とは何かである。先に、特異個について述べた。それは、複数の不連続的差異が連続的同一性である個体性にいわば内包されている状態である。メディア界的な自己であると言える。両義的な、分裂的な、ゆらぐ自己、個体である。(ちなみに、ガタリドゥルーズの説いた分裂性とは、この領域を指しているだろう。)結局、特異性とは基礎に複数の不連続的差異性があるということであり、それが基盤である。そして、コギトとは、このようなゆらぎを含んでいるだろう。それは、一方では、自我を、近代的自我を指向するが、他方では、特異個へと指向する。故に、差異とは、当然、複数の不連続的差異のことであり、特異個とはそれをもつコギトであり、自我とは、それを隠蔽的に内包する連続的同一性的個体である。
 では、不連続的差異と身体とはどう関係しているのだろうか。先に、身体(感覚)とは、メディア界と考えた。すなわち、身体とは、複数の不連続的差異が共立した「存在」である。ゆらぐ領域である。ここで問題は身体とコギトの関係である。両者ともに、メディア界的である。しかし、身体の場合、不連続的差異と原分節ないし連続的感覚とのゆらぎがあるのに対して、コギトの場合は、身体と言語的連続的同一性とのゆらぎがあると言えよう。だから、まとめると、1.複数の不連続的差異/2.連続的感覚(原分節)/3.言語的連続性がコギトにおいてあるということになる。そして、1を保持するのが特異個である。ここで、現象界における個体において、差異と言ったとき、つまり、差異的個体(特異個)と言ったとき、それは、差異化されたコギトであると言えよう。近代的自我・近代的合理主義の自我ではまったくない。
 では、この差異化されたコギトと現代はどう関係するのか。前者は、はっきり言って、ニーチェを見ればいい。現代は初期マルクスの説く資本主義に疎外された「自我」が生産される。すなわち、現代の人間は、差異化されたコギト/疎外された連続的個体・自我の二重性をもつ。後者は、正に、私が民族国家資本主義と呼ぶものの捕囚となった労働者である。そして、前者は、民族国家資本主義という連続的同一性の極大化を打破しようとする「経済」強度である。差異的コギトとは、差異的価値を知る。結局、創造的な価値とは、差異的価値である。この差異的価値を取り入れて、すなわち、新たな共立連結を行って創造生産するのである。結局、資本主義は二重性をもつ。差異的コギトの「資本主義」と連続的同一性的自我の「資本主義」である。2つの資本主義である。後者は保守反動的である。結局、差異的コギト(特異個)による「資本主義」が、創造的であることがわかる。これは、差異市場経済と呼べるものだろう。しかし、問題は、差異的コギトの評価の問題である。差異は差異である。差異肯定が前提である。差異共生共立である。差異市場経済とは、差異共生経済でもある。おそらく、ここには、消滅貨幣、減価通貨の存在意義があるに違いない。なぜなら、差異的コギトは自我指向性をもつからである。だから、それを解体するマイナス自我指向性が必要である。それは、マイナス利子通貨が作るのではないだろうか。つまり、差異的コギトのプラス・エネルギーが有利子通貨とともにあり、そして、差異的コギトのマイナス・エネルギーがマイナス利子通貨とともにあるだろう。だから、平行相補通貨体制が、やはり、必要だと思われる。ライブドアホリエモンは、前者である。しかし、「第三世界」、第一次産業、福祉、環境等には、後者が相応する。