デカルトのコギトとは何か

コギトエルゴスム。我思う故に我あり。哲学を学んだことのない人でも、これを知らない人はほとんどいないだろう。問題は一人称である。これは自我を指すのか。それとも別のものなのか。西欧語のI, ich, je等である。まったくの推測であるが、コギトは、多義的であると思う。すなわち、


1.個、特異個、不連続的差異としての個の思考
2.近代的個人主義の思考
3.近代的自我ないし近代合理主義の思考


の三様である。2と3とは、重なる部分があるだろう。思うに、個人主義とは、1と2の両面をもつと言えるのではないか。とまれ、近代科学、資本主義の発達によって、3が肥大化したのである。カントの超越論的形式とは、3を指すだろう。結局、デカルトのコギトにはゆらぎがあるだろう。特異性としての個と近代的自我との間のゆらぎが。前者は不連続的差異であり、後者は連続的同一性である。カントの純粋理性は、このコギトを継承しているだろう。結局、近現代(諸科学)は、コギトから不連続的差異性をなくして、連続的同一性である自我を主体にしてしまったと言えよう。精神分析もこれを対象としているだろう。(自我とは資本主義的主体である。)そして、このような近代への批判が様々に生じて、現象学生の哲学実存主義構造主義ポスト構造主義と継起したのである。しかし、問題は、連続/不連続の区別が明確にされなかったために混乱が生じて、理論的に頓挫した状態になったのである。思うに、ドゥルーズは差異的イデアまで到達したが、結局、イデア界を差異=微分によって連続化してしまったのである。(確かに、ガタリと共作して、不連続的差異のイメージまでは達したが、概念化できなかったのである。)
 ということで、コギト論を閉じたい。最後に一言言えば、特異性、特異個という現象界における不連続的差異は、イデア界に通じているということである。つまり、イデア界的普遍性とは、不連続的普遍性であり、それは、現象界では、特異性となるということであろう。なぜならば、イデア界の不連続的差異とは、普遍性であり、それは、現象界においては、特異点となるからである。ここに普遍性への起点・基点があるのである。すなわち、不連続的差異イデア=特異性である。