イデアの身体とは何か

[叡智学] イデアの身体とは何か


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ODA ウォッチャーズ (2005/02/21 00:13:41)
イデア界の身体』、大変に興味をそそる提示です。私は、それは、『イデア』の影、残像のような存在形式ではないか、今の所、考えています。例えば、一列に並んだ、電球が、順番に点滅する場合、私たちは、そこに、動き、ムーブメントを感じますし、そこに、何等かの物体、媒体の存在を仮定します。しかし、それは、無いのです。電球は、離れており、離れているから、離れている箇所に、動きが生じ、動き自体は、本当は無いのに、そこに、何かが在る、と考えるように、人間の認知形式が構成されているのです。この認知形式が、何処から来ているのか、それを、『宇宙』『神』『イデア界』と仮定してみることが、『プラトン』の発明でしょう。だから、不連続的差異論から見ると、『イデアの身体』は、『メデイア』によって、成り立っていると、まず、考えられるように思うのですが、如何でしょうか。つまり、メデイアにも、『強度』がある、いや、メデイアだからこそ、強度が在る、スピードがある、力が在る、と考えられます。
ODA ウォッチャーズ (2005/02/21 00:17:27)
そして、その強度、力、スピードは、掴めようとすると、消えていき、無いように思うと存在する、やはり、不連続的差異論でいう『メデイア』の振る舞い、そのものなのです。ルネ・マグリットなどの天才が、指摘している存在形式です。
philosopracticer (2005/02/21 09:07:40)
この問題は後で、再検討したいと思いますが、かなり複雑な問題ではないかと思います。スピノザ哲学の思惟と延長は、メディア界の規定ではと思います。しかし、イデア界は不連続的差異であり、それが、思惟/延長の二元論として発現するのでしょう。だから、思惟も本来、不連続的差異の共立態であり、延長も同様でしょう。ここまではいいでしょう。
philosopracticer (2005/02/21 09:08:45)
問題は、この不連続的差異とは何なのかということです。思惟の元の不連続的差異とは、延長の元の不連続的差異とは。今の推論ですが、知即存在としての不連続的差異・イデアであり、それが複数存在するということではと思います。もし、このようなイデアが一つだけしかなければ、一元論、一神教的になるでしょう。だから、多元的不連続的差異・イデア論ということではと思います。複数、多数の不連続的差異・イデア。これが無数なのかはわかりません。先に、イデア界を三元論としましたが、しかし、三元論はやはりメディア界的だと思います。
philosopracticer (2005/02/21 09:09:39)
結局、イデア界(多元的不連続的差異)/メディア界(三元論ないし心身平行論)/現象界(二元論)となるのかもしれません。」

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私のコメントを以下にまとめます。


この問題は後で、再検討したいと思いますが、かなり複雑な問題ではないかと思います。スピノザ哲学の思惟と延長は、メディア界の規定ではと思います。しかし、イデア界は不連続的差異であり、それが、思惟/延長の二元論として発現するのでしょう。だから、思惟も本来、不連続的差異の共立態であり、延長も同様でしょう。ここまではいいでしょう。
 問題は、この不連続的差異とは何なのかということです。思惟の元の不連続的差異とは、延長の元の不連続的差異とは。今の推論ですが、知即存在としての不連続的差異・イデアであり、それが複数存在するということではと思います。もし、このようなイデアが一つだけしかなければ、一元論、一神教的になるでしょう。だから、多元的不連続的差異・イデア論ということではと思います。複数、多数の不連続的差異・イデア。これが無数なのかはわかりません。先に、イデア界を三元論としましたが、しかし、三元論はやはりメディア界的だと思います。結局、


イデア界(多元的不連続的差異)/メディア界(三元論ないし心身平行論)/現象界(二元論)


となるのかもしれません。