何故、存在はあるのか、「私」、「生」、「存在」とは何か

[叡智学] 何故、存在があるのか:初めにイデアありき


この問いは、イデア界はなぜ存在するのかということでもある。根源的な問いなので、すぐには答えられないが、ここで比喩的に考えよう。自然を見てみよう。庭や畑に雑草がある。誰が種を蒔いたわけではないが、自然発生する。風や鳥が種子を運んだとは言える。では、種子とは何か。成長とは何か。遺伝子のシステムがあるとは言える。では、遺伝子とは何か。それは、生と死のある種循環のプログラムである。では、生と死とは何か。循環とは何か。そう、現象界の意味が重要である。なぜ、発現・仮象するのか。思うに、現象界とはイデア界の一部である。イデア界の一部として仮象としての現象界があるのである。たとえば、種子をイデアとしよう。発芽して、伸びて、葉を出し、蕾が生じ開花し、結実し、衰退し、枯れ果てるというプロセスが現象界ということになろう。元基は、種子のある地であるイデア界である。イデア界のイデアがいわば発芽し、成長衰退するのが、現象であり、イデア界に回帰するということだろう。ということで、現象界とは、イデア界の一部であると考えられる。つまり、根っこのイデア界が見えない現象イデア界ということではないか。つまり、知覚は現象イデア界に限定される。「私」、自我の知覚。【しかし、ここで、注意すべきは、「私」、自我は人間にしかないことである。これは、よく知られているように、新生児における、身体と脳との発達のずれ・差異に存すると思える。身体の劣弱さを人間は自我形成によってカバーするのだろう。それによって、生存するのである。結局、「知」(宗教や技術等含めて)を「発達」させたのである。】「私」、自我の現象的知覚。おそらく、こういうことだろう。人間以外の存在は、イデア界と直に接している。しかるに、人間存在、人間現象において、自我形式があるために、イデア界が忘却されていると。つまり、自我形式が中間形式(メディア界)となり、原点・源泉・始原・元基のイデア界を忘失・喪失しているのである。光ではなくて、影を見ているのである。自我形式的現象=影を見ているのである。錯視としての現象界である。
 では、なぜ、人間だけがこのような自我形式をもつのだろうか。それは、出発点の問いに答えることになるだろう。それは、「知」の獲得と、変容の必要ではないか。人間以外の存在ならば、「知」は生得的、本能的に存して、意識化されないだろう。哺乳類はそのような知的存在だろう。しかし、人間において、「知」が意識・自覚化されると言えよう。身体と脳との発達のずれによって、脳自体の発達性がある。つまり、初めから人間は、「知」を指向している。つまり、身体と脳とのずれ・差異という「本質」があり、後者の肥大化傾向があるのである。ここで、身体をメディア界とすれば、ここに自我肥大の原因がある。つまり、身体の劣弱さは受動反動となり、これが自我形式へと進展すると考えられる。身体=メディア界からの受動反動としての自我である。そして、受動反動とは端的に暴力・攻撃である。これが、「自然」的人間の意味であるし、ホッブズが説くのはこのことだろう。(また、西欧近代とはこの帰結である。つまり、野蛮としての西欧近代文化である。)とまれ、このような不備があるとは言え、人間は「知」の意識化を指向するのである。
 以上から、自我とは、「知」の意識化のための契機と言えよう。つまり、身体と脳との差異である。この差異があるために自我意識からイデア界への指向が生じるのである。ならば、この知意識化とは何だろうか。イデア界は存在と知との統一されたイデアの本源界である。存在と知との統一であるイデア。そして、現象界とはその顕現である。つまり、現象、自然とは、存在と知との統一であるイデアの発現であり、物自体とは存在と知との統一体(統一態)ということなり、そこには、人間存在のような亀裂はないのである。人間はスピノザが説くように、思惟と延長という二元論(属性)で思考するのである。結局、この分裂によって人間は、知意識を得るのである。そして、スピノザ哲学の意味は、この根源である実体=神=自然を知ることであるが、それは、結局、イデアイデア界を認知・認識することであろう。身体と脳との分裂がなければ、知意識は形成されなかったのであり、これを通して、根源のイデア界の認識に達することができるのである。だから、人間存在の意味とは、根源のイデア界を知意識化、認識することにあると言えるし、さらに、イデア界から現象界を脱自我的に変容することであるということとなろう。つまり、大いなるイデア界が人間を「指導」しているのである。つまり、イデア界的現象とは単に即自的であり、対自的ではない。イデア界の対自的発現として人間存在の意味があると言えよう。存在と知との分裂態としての人間存在。これによって、対自的にイデア界を認識し、また現象変容を指向するということではないか。
 さて、このように随想的に述べたが、最後に問題が生じたのである。つまり、イデアを、存在と知との統一体と考えたが、それでいいのであろうかということである。存在イデアと知イデアがあるのではないだろうか。これは、スピノザ哲学と関係する。思惟と延長である。たとえば、円という理念・イデアであるが、それは、知であり存在であろう。あるいは、理念的存在であろう。理存、理在とでも言うのだろうか。もしそうならば、前者が正しいということとなろう。存在と知、存在論と認識論を二元論化したのが、西欧哲学であろう。そして、スピノザ哲学もこれに従っている(正確に言えば、スピノザの究極的認識(実体=神=自然)とは、イデア論的であると私は考える)。しかるに、西欧哲学の原点であるプラトン哲学は、実は二元論ではなくて、不連続的差異イデア論であり、語弊があるが、一種一元論である。最後に、所期の問題「何故、存在があるのか」であるが、それは、イデア=知即存在が初めにありきということではないか。

p.s. では、なぜ初めにイデアありきかと言えば、思えば、無とはありえないということではないか。不可能としての無ではないか。もし、初めに無があるとしよう。無いが在るということである。無いは無いである。だから、無は無いのであろう。詭弁であろうか。有からは無が生じるだろうが、無からは有は生じないだろう。有があるから、無がアンチテーゼとして生じるだろう。色即是空の空とは、無ではなくて、有である。イデアである。



[叡智学] 「私」、「生」、「存在」とは何か


イデア界の機構から、必然的に、メディア界が形成され、そして、現象界が生起・発現・仮象する。だから、「私」(自我)、「生」、「現象」とは、必然ではあるのだが、その意味は何なのであろうか。「存在」の意味は。また、なぜ、イデア界があるのかということにもなろう。何故、無ではなくて、有があるのか。これは難しい問いなので、今は、そのようにあるからと言っておこう、とりあえず。
 では、「私」(自我)、「生」、「現象」は。「私」(自我)と個の違いとは。「私」(自我)とは、仮象であろう。そして、個とは、イデア界と現象界との中間であるメディア界的存在ということになろう。普遍者と仮象者との両義性をもつメディア界的存在としての個であろう。不確定な、ゆらぐ存在である。これで、「私」(自我)と個の問題は済んだこととしよう。
 次に、「存在」の意味、生の意味である。そう、「私」(自我)を仮象としたが、しかし、仮象を無視するのではなくて、仮象がある意味で一番大事なのではないのか。仮象・現象問題である。ここで、既述の近代西欧の問題に言及しないといけない。つまり、近代合理主義、近代自我主義によって、現象界がほぼすべてとなったのである。自我/現象界である。これは西欧文化の帰結である。ロゴスやイデアを喪失した文化の。自我、科学技術、資本主義、現象界が、中心となったのである。哲学的に言えば、カントの超越論的形式主義(資本主義の形式でもあろう)である。(デカルトのコギトの問題もあるが、ここでは、触れない。)これを近代西欧はいわば特化したと言える。そして、それはそれとして、評価すべきではある。では、所期の問題にもどって、「存在」、生の意味であるが、近代西欧形式を批判的に評価しつつも、イデア界的ロゴス・強度によって生きることではないのか。つまり、近代西欧形式とは、「魂」なき自我的生存手段であり、悪魔・悪霊的である。そう、人間は、悪魔・悪霊的になれるというか、悪魔・悪霊的であるということを証明したのである。その名状しがたいおぞましい恐怖・悪夢の歴史が、近現代史である。とまれ、この形式に対して、カントの理性や物自体がある。近現代はこれを忘れているのであるが。これが、イデア界に関わる事柄である。そして、不連続的差異論は、現代のイデア論であり、カント哲学を整合的に包摂している。イデア界・叡智界を出発点にしているのである。ここから見ると、「存在」、生の意味とは、悪魔・悪霊化した現象界をイデア界的に変容することにあると言えよう。不連続的差異論から見ると、超越論的形式とは絶対ではなくて、連続的同一性の形式・構造である。ただし、人間存在に繰り込まれた形式ではある。とまれ、イデア論から、超越論的形式を相対化し、結局、それをイデア論的に活用することになるだろう。具体的に言えば、資本主義経済を、イデア論的に活用するということとなろう。資本主義のイデア論的変容があるということである。連続的同一性の資本主義を、不連続的差異化し、差異共存・共生経済へと変容させることである。自我から特異個・差異・不連続的差異への意識変容があり、それをともなって経済を変容させることと言える。現代はその移行期、相転移期、転換期である。ということで、イデア論的に「存在」、生の意味が判明しただろう。つまり、人間とはイデア界的存在であり、その生をもつということである。