多神教的キリスト教、普遍社会主義?、カール・マルクスは蘇るか?!

[宗教] イエス・キリストとは:キリスト教多神教

神話学から言えば、イエス・キリストは、死んで蘇る神であり、エジプト神話で言えばオシリスであり、アナトリア(今のトルコ)神話で言えばアッティスであり、ギリシア神話で言えば、アドニスであり、日本神話で言えば、天稚彦である。それは、必ず、女神と対になっているのである。イシス、キュベレ、ヴィーナス、アマテラスである。そして、ニーチェ的に言えば、ディオニュソスである。イエス・キリストは神話的には生命の神であり、ディオニュソスと見るのが的確だと思う。そして、民衆文化はそのようにイエス・キリストを捉えてきたのである(ジョセフ・キャンベルの神話学)。ケルト文化は、イエス・キリストを自然崇拝の中で取り入れたのである。だから、キリスト教の復活とは、多神教的復活であろう。多神教キリスト教である。ヘルダーリンは正鵠を射ていたし、D.H.ロレンスが20世紀においてそれを十全に表現したのである。キリスト教原理主義は、まったき反動であり、批判しないといけない。それは、外在的倫理であり、権力的暴力である。キリスト教多神教化することで、内在的倫理が発動・発現するだろう。もっとも、現代の多神教化とは、不連続的差異論化であろうが。

p.s. 折口信夫が『死者の書』で、多神教的復活神話を文学的に表現したと言えるのではないだろうか。それは、自然と人間の「連帯」を意味していよう。

p.p.s. キリスト教=資本主義とするならば、その多神教化とは、多神教的資本主義であり、一神教グローバリズムを否定する。また、多神教化とは、超越化ではなくて、内在化である。それは、不連続的差異論化である。つまり、多神教社会主義ということだろう。普遍多神教社会主義だろう。

3p.s. 思うに、科学的社会主義とは、外在的社会主義であり、早晩反動化するのである。不連続的差異論的社会主義が、内在的社会主義であり、これが、現代世界の解放理論となるだろう。


[備忘録][経済] 差異共存経済と普遍資本:普遍社会主義

 布団の中の半覚醒のなかで、普遍資本という言葉が浮かんだ。今日、生産手段(ハード、ソフト含めて)、土地等が、法人や私人の所有物となっているが、資本主義は経営者や労働者・生産者他の相補的分業生産によって成立しているのであり、いわば、不連続的差異の複合体である。だから、資本主義的生産によって生じる「利益」・剰余価値とは、本来、この複合体に属するものではないだろうか。また、自然、智、資本の複合体でもあるだろう。結局、剰余価値とは、労働、自然、智、資本の複合体である総合資本である。これは、特定の所有物ではない。いわば、普遍的な富である。これを、私的所有にするあり方は、本来的でなくて、不公正である(プルードン的であるが)。いわば、普遍資本があるのであり、この公正な展開が必要である。だから、普遍資本社会主義が考えられるのではないだろうか。思うに、ここで、バーキルッ・サドルのイスラーム経済論が参考になるように思う。もっとも、不連続的差異的普遍資本社会主義である。
 以上は、まったくの思いつきであり、無視していただきたい。

p.s. 私的所有ではなくて、特異・差異的所有が本来考えられるのではないだろうか。しかし、現在の資本主義では、私的所有を認める法律によって、特異・差異的所有が否定されているのである。つまり、特異・差異的平等権が無視されて、私的所有差別権が法律で認められているのである。つまり、資本主義は、民主主義を建前とするが、経済的には、反民主主義である。私的所有差別主義である。本来、不連続的差異的な内在的所有権を認めるのが、民主主義的経済(社会主義)であろう。この不連続的差異的内在的権利を肯定し、それを公正に実現するのが、普遍的社会主義、不連続的差異的普遍社会主義ではないだろうか。

p.p.s. マルクスは、個体的所有をコミュニズムに見ていた。資本の国有化(レーニン主義)ではない。個体的所有とは、特異・差異的権利的所有と言うべきではないか。

3p.s. 金融資本の私的所有を禁止すべきであろう。金融資本は、公的所有(国家所有ではない)であるべきであり、また、特異・差異的権利所有と流通すべきではないか。


[政治][社会][文化] 二つの近代西欧と父権/母権文化

鶴見和子氏と武者小路公秀(きんひで)氏との対談で、覇権的近代化と反省的近代化の二つが併存している西欧近代が述べられている(「複数の東洋/複数の西洋」、「機」所収 2004.3.No.146 藤原書店)が、これは、これまでの検討から、キリスト教的資本主義とギリシア的民主主義との併存と見ることができるだろう。そして、これは、父権文化と母権文化との併存と平行するだろう。私は、キリスト教を批判してきたが、D.H.ロレンスがいう二つのキリスト教(一つは平等と和解のキリスト教であり、一つは、復讐・憎悪・ルサンチマンキリスト教である)を考えると、平等と和解のキリスト教ギリシア的民主主義とが結合したもの(A)を考えることができるだろう。おそらく、これが最良の西欧近代文化であろう。そして、それと対蹠的に、復讐のキリスト教と資本主義との一体化の西欧近代(B)がある。思うに、Aは、母権文化と古代ギリシア文化の結合であり、Bは父権文化である。思うに、問題は、この二つを結合することではないだろうか。Bの牙を抜き、肯定的能動化を行う。そして、倫理・共感的民主主義のAと接続する。資本主義の攻撃性をなくすが、能動性、活動性をもち、かつ民主主義的な社会共存性を維持するのである。つまり、資本主義の反動的強度を、真の能動・肯定的強度に換えて、それと民主主義的共存性と結合するのである。能動的共存主義が形成されるだろう。ロレンスが結局、晩年に達した思想は、そのようなものであった。強度と「愛」の連結である。そして、それは、不連続的差異の共感/強度と一致するだろう。理念的には、これでいいのだが、経済論にするには、強度共存価値を評価する計算が必要なのではないか。それは、需要/供給の力学ではなくて、自由主体強度的価値評価が中心となるのではないか。主体の自由な表現としての生産があり、それを、他者に供与するのだ。共通生産物(共通資本?、共通価値?)供与経済(共通生産供与共存経済:共生供与経済?)ではないだろうか。(ここで留める。具体的な価値評価手段、共存体の有り様、経済交通等については別に検討する。)


[政治] 日米全体主義

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/ の「森田実の時代を斬る」は、ブッシュ/小泉の「主人/奴隷」の危険な政治を犀利に批判している。


[政治][経済] カール・マルクスは蘇るか?!

2005年森田実政治日誌[12](1月12日)から
カール・マルクスは蘇るか?!
――的場昭弘著『マルクスだったらこう考える』は大変興味深い本である」
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/ 「森田実の時代を斬る」から
「しかし、1991年にソ連共産主義体制が崩壊し、資本主義対共産主義の戦いに決着がつきました。唯一の超大国となった米国がグローバリズムを掲げて全世界に自由競争主義を輸出します。超大国・米国の圧力は抗し難いものです。全世界に自由主義、競争主義の波が起きました。再び社会主義以前の競争的資本主義が戻ってきました。歯止めなき自由競争は、少数の勝者と膨大な敗者をつくり出します。敗者の数はどんどん増えていきます。人口の圧倒的多数が敗者になります。やがて彼らは、勝者への復讐の戦いを始めます。
 このとき、マルクスが蘇生する可能性があります。もちろんレーニン主義スターリン主義毛沢東主義の復活は困難でしょう。しかし、純粋のマルクスなら、21世紀の新たな被支配階級の抵抗の思想と理論として蘇る可能性はあるかもしれないと思います。」2005.1.11から
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334032818/ref=pd_sim_dp_1/250-1035841-4098640
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4772704086/ref=pd_sim_dp_4/250-1035841-4098640

p.s. カール・マルクスの復活は確かに上記のように時代が呼んでいるだろう。そう、「カール・マルクス」である。19世紀の社会主義の復活であるが、反動性を取り除かないといけない。しかし、闘争性をもたないといけない。非暴力的闘争である。では、どのようになるのか。もっとも、社会主義をおさえておかないといけない。結局、「ブルジョワ革命」に内在していた民主主義と資本主義の闘争であろう。資本主義は、前者を隠れ蓑、イデオロギーにして、民衆、勤労者、労働者を欺しているのである。確かに、修正資本主義(ケインズ)で、バブルにしたが、結局、地の牙が今や出ているのだ。古典派経済である。(ポストモダニズムは、修正資本主義に対応していたとは言えるだろう。)新自由主義に対して、いかなる闘争理論があるか。ニュー・マルクスとは何か? 新社会主義とは? 新共産主義とは? それは、思うに、不連続的差異価値共与経済を意味しないだろうか。不連続的差異共与主義ではないか。そのための、共与共存体、共与通貨、共与銀行が必要となろう。ならば、マルクスプルードンの復活ではないだろうか。不連続的差異論的マルクスプルードン主義ではないか。この点は後で、再検討しないといけない。


[言語] 日本人の外国語能力

素朴な疑問として、なぜ日本人が英語を筆頭に外国語が苦手なのかということの理由をいろいろ考えたが、結局、連続的共同体性(ナショナリズム)が強固なことがいちばんの要因ではないかと思う。不連続的差異的個となって、不連続的差異である外国語に接触することが必要だろう。日本語的連続共同体のぬるま湯に浸っていては、外国語はものにならない。とはいえ、現今の英語ブームには、批判的である。単に実用的な英語力をつけようとしている。外国語とは、異文化であり、他者であるから、自文化と対決させる必要がある。気骨のある外国語教育が必要である。結局、不連続的差異的外国語教育となろう。
 ところで、日本語を国際語にしたいと思っている。そのためには、アルファベット併記ないしルビ併記が必要ではないだろうか。

p.s. そう、最近は、漢字を読めない人が多いので、ルビは必須ではないだろうか。

cf.
http://www.janjan.jp/culture/0501/0501172667/1.php


[政治][社会] 郵政民営化憲法改正

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050119k0000m010096000c.html
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/postal_services/
http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&gl=jp&ncl=http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050119k0000m010079000c.html&filter=0
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20050118/mng_____sei_____003.shtml
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%B7%FB%CB%A1%B2%FE%C0%B5&b=1&st=t
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/ 「森田実の時代を斬る」の2004.7月〜12月を参照