新仮説:二つの日本民族:百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11982543599.html


新仮説:二つの日本民族百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族が従えた後期弥生農耕母権集団民族


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


日本書紀』(二)の第十一巻、仁徳天皇の記事の最後の方になってようやく、騎馬の記述が出てきた。もっとも、それ以前にあったのを見過ごしているかもしれないが。


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 「精騎」(すぐれるうまいくさ:p. 270)の言葉があり、これは、騎馬と考えられる。これは、「田道(たぢ)」が率いるのであり、彼は、百済出身の考えられる。
 以下の東海アマ氏の記事と相関させて、百済騎馬民族倭国に到来したのは確かなようである。
 私はこれまで、簡単に、百済人は母権民族と考えてきた。しかし、『日本書記』での記述は、倭国の土着的ないわば、反抗的な異民族(蝦夷:えみし)に対して、執拗に攻撃を行なっているのである。
 好戦性が強いのである。好戦性は父権民族の特性である。そうならば、百済民族は父権民族となる。
 ただし、私の作業仮説、『日本書記』は父権民族の視点で母権民族を含めた大和朝廷の形成の史的神話が語られているということから見ると、『日本書記』に見られる百済騎馬民族に当たるとされる民族の好戦性は、必ずしも、実際の百済騎馬民族のものではなく、父権民族のそれが投影されていると見ることは可能である。
 そうすると、百済騎馬民族とは母権民族であり、それとは別に、好戦的な父権民族が支配的ということになろう。
 仁徳天皇は、確かに聖王として、理想化潤色されているのは確かだろうが、しかし、やはり、そこには母権民族の共同体の精神が感じられるのである。
 百済騎馬母権民族の史的神話があり、それに父権民族の好戦性が上塗りされているように思えてきたのである。
 そして、父権民族をこれまで、ユダヤ・大陸系としたのが、一端、ユダヤ民族は外したい。
 今は後期弥生農耕集団民族と大陸系父権民族の混淆が日本父権民族ではないかとしたい。好戦的なのは、当然後者だと思う。だから、大陸系父権民族が率いた後期弥生農耕集団民族が日本父権民族としたい。
 問題は、後期弥生農耕集団民族が父権なのか母権なのかである。農耕民族ならば、母権民族ととるのが普通である。だから、大陸系父権民族が従える後期弥生農耕集団母権民族が、日本父権民族ということになる。
 しかしながら、それは齟齬を来す。父権+母権だから、純粋父権にはならないはずである。そうすると、私が考えた日本父権民族とは、誤りであり、日本父母権集団民族とでもしないといけない。
 とまれ、そう見ると、「日本父権民族」の脆弱さがよく見えてこよう。もし、純粋に父権民族ならば、愚鈍のはずはないからである。
 そう、父権・母権未分化集団民族とでもするといいかもしれない。(本文内追記:しかし、以下の追記にあるように、ベースに後期弥生農耕母権集団民族を置き、それとは別に大陸系父権民族を考えれば、日本父権民族とは考えられることである。それが、スキタイ・新羅系父権民族と言えるのかどうかはわからない。でも、二つのツングース民族が考えられよう。母権的ツングース民族と父権的ツングース民族である。)
 ということで、新たな作業仮説として、二つの日本民族とは、
一つは百済・出雲・縄文的母権民族であり、
一つは大陸系父権ー後期弥生農耕母権集団民族ということになる。
 『日本書記』は後者の視点から前者の神話を改竄的に包摂して、書かれていると思われる。
 もっとも、圧倒的力をもつ大中国に対抗するために大和朝廷史実に似せた神話であることは確かと思われる。
 最後に大陸系父権民族であるが、それに新羅を含めるのかはまだ未確定である。東海アマ氏は、女真族をあげている。その可能性はあるだろう。
 とまれ、日ユ同祖論はいったん、取り下げよう。


追記:後期弥生農耕母権集団民族を従えたと述べたが、そうではなく、既に存在していた後期弥生農耕母権集団民族を到来後に支配したというように考えた方が適切かもしれない。
 ところで、百済母権騎馬民族と仮説したが、思うに、大陸系父権騎馬民族というのも考えられる。後者が、いわゆる江上波夫氏の騎馬民族説に当たるのではないだろうか。
 また、東海アマ氏が聖徳太子に見る騎馬民族は、百済母権騎馬民族ということになろう。
 つまり、二つの騎馬民族の到来の仮説である。


追記2:ひょっとして、母権騎馬民族と父権騎馬民族の闘争が古代日本においてあり、後者優位の下で、前者の神話を取り込み、改竄的に書かれたのが『日本書記』かもしれない。
 結局、土着的倭国が下敷きにあり、両騎馬民族の相克的日本国家創建のフィクション的史実が『日本書記』ということかもしれない。


参照:
日本父権民族と母権民族:だいぶその出来がわかってきた:母権的百済と父権的新羅高句麗


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前

私の住む蛭川村は、家々が孤立し、大きな城のようだ
これは百済由来の騎馬民俗に共通する「一所懸命」思想から来ている
満州高句麗を本拠地とした女真族武家社会で「家=国」の価値観を創り出してきた
こうした民俗は、二千年前から変わっていない
日本の地域社会に深く息づいている


アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前
歴史というものの本質は民族大移動と融合である
民族と民俗の変遷の法則を解き明かすのが考古学であり民俗学である
日本史を語るにあたって、弓月氏満州族天皇家の関わりを抜いてはアンのないぼた餅にすぎない
その本質は民俗にある
例えば聖徳太子のズボンは乗馬風俗を意味する
騎馬民俗だ


参考:きわめて、私の説に関係すると思われるので、全文を資料として転載させていただく。
 なお、緑色文字且つイタリック且つ下線は、管理者resurrectionに拠る。
 また、紫色・下線部は管理者が疑問をもつ箇所である。

 
追記:以下の記述は私の新仮説に通じるものがある。「百済ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷天孫族)である。」という箇所であるが、これは、私が仮定する後期弥生農耕母権集団民族に通じよう。
 しかしながら、後半の部分はそのまま受け取れない。私はそこには、なんらかの大陸系父権民族が支配的であったと思うからである。私の仮説(「妄想」)では、おそらく、スキタイ系新羅の父権民族が、伽倻(韓倭農耕部族連合)を主導したのである。
天皇制国家の源流7 ツングース百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...


天皇制国家の源流7 ツングース百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷


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画像はこちら からお借りしました。
天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓百済高句麗である。
このように、辰国→辰韓百済高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓百済高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓辰韓弁韓(弁辰)があった。
三韓馬韓辰韓弁韓の後身が百済新羅伽耶伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済新羅高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓辰韓弁韓三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済新羅伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓百済高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅高句麗百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗百済の言語とは違っていた。
国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオオオクニヌシニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州北朝鮮を支配。その分派の百済朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗百済)やモンゴル族新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html