鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と

画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11987177642.html


鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と農耕父権集団民的屈従性の融合


テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔


私は日本父権民族批判をしている。今の支配層・権力層の人間をそう見るのである。
 強者に媚び、屈従隷従し、弱者は暴虐的に利用する。
 私は後期弥生農耕的集団民族と遊牧系父権民族の混淆が源泉と考えている。
 しかし、私の疑念は、農耕的集団民族は、母権的なのだろうかという点である。意外に父権的なのではないだろうか。
 そうすると、遊牧系父権民族を仮説する必要がなくなるのである。
 しかしながら、問題は好戦性の源泉である。それを考えると、遊牧系父権民族が想定されるのである。
 思うに、農耕的集団父権民族と遊牧系父権民族の混合(追記:これを融合と見れば、明快になるのである)が、日本父権民族を形成したのではないかということが考えられる。
 つまり、後者の好戦性と前者の屈従性が融合して、日本父権民族の性格が生まれたということではないだろうか。


追記:以下の最初の参考記事「天皇制国家の源流7 ツングース百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷」に、日本支配層の敗北主義の説明があるが、私の説とは異なる。
 伽倻(これが、私の仮説する農耕父権集団民族)が日本に到来するのは、肯定しよう。しかし、伽倻が既に到来していた新羅勢力を服属させるという点は肯定しない。
 私は思うに、新羅民族(スキタイ系遊牧民族)が、伽倻民族を服属させたように思うのである。新羅民族の好戦性と伽倻民族の屈従性の混合が日本父権民族の性格を形成したのではないだろうか。
 さらに、検討しないといけない。


追記2:日本父権民族の好戦性を、後期弥生農耕父権集団民族(伽倻民族)の性格で説明できるだろうか。
 もしできるなら、以下の説明は納得できることになるが。
 しかし、凶暴無惨残虐暴虐な好戦性は、農耕民族の性格からは説明できないのではないだろうか。
 しかし、私の仮説の新羅民族の好戦性にも欠点がある。何故、スキタイ系遊牧民族が伽倻民族と融合して、屈従・敗北主義的になるのかという問題があるからである。
 今、思いついたが、日本民族は、二重構造ではなく、三重構造ないし四重構造ではないかということである。
 つまり、日本民族は、


1,ツングース系扶余・百済母権民族
2.スキタイ系新羅父権民族
3.後期弥生農耕父権集団民族
4.土着的縄文母権民族


の四つの民族から、少なくとも構成されると見るのである。
 三重構造というのは、4を外して考える場合である。
 いちおう、三重構造で考えると、以下の記事にあるように、3が主体になって、1と2を服属させ、支配したとしよう。
 3は狡猾な民族であり、1の母権天皇制と2の父権遊牧民族の好戦性を利用して、『日本書記』をメイクアップしたのではないだろうか。
 そう、日本父権民族の好戦性は新羅民族から来ていて、それを、巧妙狡猾卑怯卑劣な3の父権民族が利用しているのではないだろうか。
 つまり、後期弥生農耕父権集団民族が二つの、異なる遊牧民族(母権扶余民族と父権スキタイ系新羅民族)を利用支配しているということではないだろうか。 
 四重構造で見れば、さらに、土着的母権縄文民族を新羅民族を利用して、迫害虐殺したと考えられる。ターゲットは蝦夷や隼人等である。
 3はとんでもない賤民民族である。


追記3:3が日本父権民族の主体としても、その好戦性は、2の好戦性を狡猾に利用しているということではないだろうか。本当は、好戦性はないのである。2をイデオロギー的に利用していると考えられるのである。
 つまり、現実的に言えば、椅子羅謀黒への闘争を宣言すれば、日本民族の構成員の2が反応すると現似本背腐は重っているということではないだろうか。


追記4:今、ふと想起したが、3の農耕父権集団民族と2のスキタイ系新羅父権民族は、一国両制の統治システムをとったのではないだろうか。つまり、スキタイ系新羅父権民族は「北面官」が、後期弥生的農耕集団父権民族を「南面官」が支配するようになったのではないだろうか。つまり、二つの民族を並行的に支配するシステムである。だから、中心は二つのあるのであり、「北面官」と「南面官」である。
 そして、新羅系は、扶余・百済系の母権天皇制を簒奪して、父権制に変えてしまったのではないだろうか。その改竄的記録が『日本書記』ではないか。
 とまれ、一国両制システムを仮説したい。
尚、この制度概念は、陳舜臣氏の『桃源郷』の冒頭の説明にある。
 「遼の独特の制度は、なんといっても、契丹族をはじめ遊牧の人民は北面官が治め、定住の漢族は南面官が担当するという一国両制のシステムである。」 (上巻)7頁


追記5:一国両制システムをとっていたとしよう。しかし、時間が経つに連れて、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻民族)とスキタイ系遊牧父権民族(新羅民族)は融合して、上述したような、強者に服従し、弱者を虐待する性格が生まれたのではないだろうか。敗北主義と暴政主義である。


追記6:好戦的遊牧父権民族であるが、それにユダヤ民族を含めてもいいかもしれない。つまり、多重複合的な好戦的遊牧父権民族を見ていいのではないだろうか。


追記7:天孫降臨族とは、2と3の融合した父権民族であり、天孫ないし天孫降臨という理念は、1の扶余・百済母権民族の天皇王国制度のそれをイデオロギー的に借用・利用した、奪った・横取りした、「パクった」ものではないだろうか。父権民族は狡猾である。


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参考:尚、緑色文字、イタリック、下線は管理人resurrectionに拠る。

天皇制国家の源流7 ツングース百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷


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画像はこちら からお借りしました。
天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓百済高句麗である。
このように、辰国→辰韓百済高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓百済高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓辰韓弁韓(弁辰)があった。
三韓馬韓辰韓弁韓の後身が百済新羅伽耶伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済新羅高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓辰韓弁韓三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済新羅伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓百済高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅高句麗百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗百済の言語とは違っていた。
国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオオオクニヌシニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州北朝鮮を支配。その分派の百済朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗百済)やモンゴル族新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html



天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流
天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

 いままで十数回にわたり天皇制国家の源流を追求してきました。ここで、いままでのまとめを行いたいと思います。ちょうど年末のなんでや劇場で、日本の闇勢力について追求が行われました。その内容も併せて、四回程でまとめてみたいと思います。
まず、古代以前のユーラシア大陸の状況からです。
●北方モンゴロイドの南下
・5万年前〜2.1万年前、極寒化で北方モンゴロイドは小部族で南下。シベリアは無人状態に。
・2.1万年前〜1.3万年前、温暖化で人口爆発し、モンゴル平原に北上。アルタイ系3祖族を形成(新モンゴロイド)。父系集団で垂直的な上天信仰、熊神信仰、冬祀りetcの文化。
・1.3万年前、急激な冷え戻りで、南下。チュルク族は西方に、モンゴル族は南方に、ツングース族は東方に拡散。(下図参照)
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(画像はリンク よりお借りしました)
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・6千年前〜4千年前、中央アジアの乾燥を契機にアーリア族による略奪闘争が発生し、東西に玉突き的に伝播。アーリア族→チュルク族→モンゴル族ツングース族と玉突き的に急激な移動・拡散が起こる。
チュルク族は、早くからアーリア族と混融。馬と金属の文化で、西アジアから地中海、あるいは東欧・ロシアにまで分布。
モンゴル族は、東アジアから中央アジアに広域に拡散。北方は遊牧を続け、南下した部族は農耕に転換。
ツングース族は、極東で長く狩猟を維持(馬とトナカイを飼い慣らす)。モンゴル族と混融。シベリア・満州・朝鮮の源流。
・3.5千年前、モンゴル族が殷を建国。3.1千年前、チベット族が周を建国。
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☆日本には3〜1万年前から、主に南方のスンダランドから列島にやってきた人々が縄文人を形成、そこに新たに大陸の戦乱から逃れた江南人がやってきて弥生人が生まれます。
縄文人+江南流民=弥生人
 日本人の基層を成すのは縄文人であるが、2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人の一部が日本列島に亡流した。彼ら江南流民は、何れも少人数で、周りの縄文人に受け入れられ、混融していった。これら少数の江南流民と縄文人の混血を弥生人と呼ぶことにする。
 彼らは2400年前〜2200年前までに、九州、出雲、北陸、あるいは瀬戸内、高知、尾張紀伊、伊豆に国を作っていった。=弥生人の小国。
 ここで、倭人について触れたいと思います。倭人とは、日本史では古代の日本人そのもののように言われていますが、明らかに間違いで、上記の中国南方からの流民(江南人)を指しています。日本列島に流れ着いたのは一部であり、その主力は朝鮮半島へ流れ着いていました。
倭人とは江南人(呉・越・楚人)
 倭人とは、2500年前〜2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民である。2480年前の呉滅亡→呉人が弁韓へ、2340年前の越滅亡→越人が馬韓へ、2235年前の楚滅亡→楚人が辰韓へ(いずれも一部は日本列島へ亡流)。
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〔呉・越・楚の滅亡と遺民(倭人)の移動〕(図版はリンク よりお借りしました。)
 倭人が江南人のことであることの証拠に、中国からみた倭(人)の範囲が時代を追うにつれ南に下がってゆく。
 最初、中国は南朝鮮全体を倭と呼んでいたが、百済新羅国家が形成されると、国家が形成されずに部族連合として残った伽耶を倭と呼ぶようになり、伽耶滅亡後には、倭は日本列島だけを指すようになった。
 魏志倭人伝の時代は主に伽耶倭人が活躍していた時代であり、そこで登場する倭は日本ではなく、朝鮮半島にあったのである。高句麗の広開土王が戦った倭も朝鮮半島伽耶のことである。
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倭人は、朝鮮半島水田稲作を始めていました。そこに稲作民を支配する様式を持つ北方部族が南下して、国家を形成し始めます。
倭人+扶余族=韓人
 朝鮮半島では、これら江南流民がほぼ原住民=倭人であるが、後に朝鮮半島ツングース族(一部モンゴル族)が南下する。後から侵入してきた扶余族との倭人との混血を韓人と呼びます。
1.2300年前、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。つまり、三韓とは、扶余族が韓倭人(呉・越人)を服属させた国である。扶余族と倭人(呉・越人)が混血したのが韓人である。
2.2235年前、秦に強制移住させられていたモンゴル系部族(スキタイとも混融?)が大量の楚人と共に脱出・南下。辰国(中心が馬韓)から東部の辰韓を割譲してもらい、これを支配。
3.1950年前、別の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
 新羅は、百済=扶余族に従属するモンゴル系部族が江南流民(主に楚人)を支配した国である。新羅が扶余族ではない証拠に、新羅はシベリア・スキタイ系文化の色彩を帯び、言葉も扶余系とは異なる。従って新羅には「王は神で、他の姓は替れない」という扶余族の現人神(天孫降臨)信仰はなかった。
 秦の長城建設の為に強制移住させられていた楚人とモンゴル族(スキタイ族?)が、モンゴル族に率いられて脱出し、極東を東端まで横断した後、日本海沿岸を南下して慶州平野に進出した。中国「辰韓伝」によると、馬韓が脱出してきた民に、馬韓領土の東部を割譲したとあり、辰韓馬韓に服属することで成立した。
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秦帝国万里の長城朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島辰韓を形成 〕
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☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。(続く)

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/01/2475.html