二つの日本:明治維新以前の日本と以後の日本:母権・父権統合日本と
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二つの日本:明治維新以前の日本と以後の日本:母権・父権統合日本と
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
私の日本民族仮説は以下の参照2に一番よく表れている。
簡単に復習すると、古代において、三つの民族が大和朝廷を構成した。伽倻族、新羅族、百済族である。三つの民族の三幅対・三重構造・三位一体である。
しかし、伽倻族が主導支配的であり、全体を指導した。
伽倻族は敗北主義的農耕集団父権主義であり、新羅族はスキタイ系好戦性をもち、百済族は天皇王制で母権民族である。
この三幅対は、伽倻族が主導的であったとは言え、全体においては、いわば、父権⇔母権陰陽バランスを保ち、それが明治維新まで継続した。
しかし、明治維新は、伽倻・新羅の父権主義が百済母権主義を排除して、それが突出して生まれたものであり、伝統的な日本国政体は破壊された。
伽倻・新羅的父権的国家であるが、それは、排他的な自民族中心主義であり、また、狂信的好戦性をもっていた。
狂信は思うに、伽倻族から、好戦性は新羅族からのものである。
この狂信的好戦性は、凶暴残虐非道無道であり、これが、東・東南アジア戦争をもたらし、諸国民に膨大な犠牲をもたらした。
しかし、敗戦後において、似非日本国は、伽倻・新羅民族に拠る権力体制を解体せず、残存させてしまったのである。
この残存した明治維新後の戦前・戦中の狂信暴虐好戦的な伽倻・新羅民族権力体制が今日の某首相の政府へと帰結していると考えられる。
極論すれば、まったく異質な二つの民族が「日本」に併存しているのであるが、国民はそれに気付かないのである。
例えば、英国の場合、ケルト系とアングロ・サクソン系に分れる。前者は母権的であり、後者は父権的である。
それは見やすいことである。
そのような二元性が「日本」において、認識されていないのである。
それは、大和朝廷による天皇制が、単一民族的統一国家を形成したというイデオロギー(イデオロギーには映像が関係するので、
ヴィデオロギーという語を造語してもいいだろう。)に拠るのではないだろうか。
否、それより、明治維新に拠る「天皇制」による統一国家のイデオロギー=ヴィデオロギーに拠ると言えよう。本来、多様な民族から成る日本国が単一民族から成る国家とされたのである。
結局、現某国の破滅的事態は明治維新の帰結・負の遺産と言えよう。
追記:ロシアがロシア革命を否定したように、日本も明治維新革命を否定する必要があるだろう。
そう、母権民族が主導する必要があるのである。先に唱えた神聖天皇制は無理であるから、母権天皇文化は残し、母権的政体を形成する必要がある。
ロシアの同じように、内部に巣くった專争邪を追い出す必要がある。
とまれ、放射能汚染で、能天気な伽倻的民族の国民は滅亡するだろう。そこから、日本の精華である母権民族が新倭国を創建すべきである。
参照:
陰陽均衡の日本伝統文化から父権中心母権排除の明治維新の狂信的精神風土への転移
参照2:
伽耶主導三極父権・母権陰陽体制(明治以前)と伽耶・新羅二極父権体制(明治維新後)
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に以下のように書いたが、思うに、明治維新まで、日本の政体は、伽耶主導の三極体制(伽耶-新羅-百済)であったと思われる。
もっとも、江戸時代後期になって、それが分裂しだしたと思われる。伽耶-新羅父権路線と百済母権路線の分裂である。前者は国学イデオロギーをもち、尊王攘夷を振り翳し、そして、父権化された天皇制国家を形成したと思う。それは、伽耶−新羅の二極路線であり、それまで護持していた百済母権路線を排除したものと思われ、日本の政体の伝統を逸脱したものと思われる。
父権と母権、つまり、陰陽バランスをもっていた、日本の政体が崩壊し、父権に傾斜した体制ができあがったと考えられる。
問題は、伽耶-新羅体制の意味するものである。私は国学イデオロギーを問題にするのである。
私は国学は父権的反動であると見ているが、それは、好戦的新羅父権的反動というより、伽耶稲作集団父権民族の反動が主体ではないかと思う。
民族集団中心主義が生まれたと思うのである。そう、自民族中心主義であり、中国、朝鮮他を排他的に排除したのである。
これに私は新羅父権民族の好戦性が重なり、尊皇攘夷イデオロギーが生まれて、きわめて排他かつ戦闘的イデオロギーが生まれたと思うのである。国家神道の前身である。
この伽耶主導の伽耶・新羅二極父権体制、このいわば狂信的体制が明治維新以後、支配的になった思われる。
しかし、伽耶の敗北主義、強者に媚び諂い、従属し、弱者を暴虐する姿勢態度がそれには色濃く残っていると考えられる。
伽耶の敗北主義的狂信排他的民族集団、これが、ベースにあり、新羅父権民族の好戦性を吸収したとものと思われる。
これは、悪霊的破滅・自滅集団である。
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伽倻主導三元体制:伽倻稲作集団父権民族と新羅スキタイユダヤ父権民族と百済ツングース・扶余母権民族
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に、以下のように、伽倻族が、母権百済族と父権新羅族を支配していると仮説した。もっとも、土着母権縄文族、母権海洋族等は便宜上、省いているが。
似本の支配・権力層は確かに、好戦的姿勢を取っているが、果たして、本質的に好戦性をもっているのだろうか。
狡猾なので、新羅族の好戦性を利用しているだけではないだろうか。
一見、某首相の姿勢は好戦的であるが、果たして、本質的にそうなのか。
やはり、古代において、伽倻族が新羅族を支配したとき、後者の好戦性を利用する狡猾な手段を取るようになったのではないだろうか。好戦的なポーズをとれば、好戦的な新羅族を利用できるはずである。
どうも、このように考えた方が、伽倻族が好戦的であると見るより、合理的であるようだ。
伽倻族が好戦的であると見る場合は、やはり、伽倻族が、新羅族と融合した見ることになるだろう。
しかし、融合だと、新羅族にも主導性が生じるのである。
ちょっと、あいまいになってきた。
後代の武士層の生成を考えると、やはり、好戦的新羅族がなんらか、支配層に存したと見るべきではないのか。
そうならば、伽倻族だけが主導的であったのはなく、伽倻族と新羅族の融合した民族(融合民族)が主導的であったことになる。
そうすると議論は元に戻る。それは、私の最初の作業仮説であったからである。
ここで、新たな作業仮説を提示すると、日本古代においては、伽倻族、新羅族、百済族の三民族の三幅対、三重構造、三つ巴の権力体制があったとするのである。
三元ないし三極民族体制である。これが、古代天皇制の実体、本体となる。
だから、『日本書紀』は、この三元(三極、三重)民族体制の様相が描写・活写・実写されているというようにも考えられる。(追記:思うに、この三元体制の実相が、装飾・潤色・創作はあるものの、活写されていると言う方が適切だろう。汩
神武天皇、雄略天皇の好戦性は、新羅族のそれを表現しているということになるし、仁徳天皇の仁慈ある治世は、百済族主導の統治を意味し、また、中央集権体制=律令制は、伽倻族の専制に因るものではないだろうか。
ということで、現時点での新仮説として、日本古代は、伽倻族、新羅族、百済族の三つの異なる民族の併存併合混合混淆する三元・三極・三重体制であったとしたい。
追記:伽倻ー新羅ー百済の三元体制を仮説したが、やはり、その中では、伽倻族がもっとも主導的であったのではないだろうか。
だから、伽倻主導的三元・三極・三重体制を大和朝廷の政体の本質としたい。
追記2:明治国家であるが、それは、この伽倻主導の三元体制から、百済母権民族が抜けている(追記:というよりは、百済母権民族の天皇王制が形式化され、つまり、「天皇制」化されて、きわめて、抑圧されたものになったのではないだろうか。完全には排除はしていないだろう)、伽倻主導伽倻・新羅二元体制ではなかっただろうか。百済母権民族の天皇王制は、形式として形骸的に利用されたということだろう。いわば、父権天皇制、独裁天皇制、専制天皇制となったと思われる。
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後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。
追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。
追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。
結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
私の仮説では、二つの主導民族がある。
1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族
2.後期弥生農耕集団父権民族
である。
最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988393633.html
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷
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「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。
ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。
辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。
【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説〜原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。
新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。
まとめると、次のようになる。
【1】紀元前5〜4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。
【2】紀元前4世紀〜、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。
【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)
【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州〜北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流〜日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
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天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流