シェイクスピアの『リア王』を読んで:暗い根源的力

リア王』について

劇の登場人物、構成や周辺の事柄については、後で触れるが、先に、読後の印象、感想、コメントを述べたい。はっきり言って、現実感の乏しい劇である。言葉が、うわすべりというか、軽薄な感じがする。そう、夢をみているような感じである。なにか強い力に動かされて、劇が動いていて、登場人物は影絵のようである。そう、背後に劇を駆動される力が隠れているのであり、それによって登場人物は善人、悪人、愚者等は、動かされているという印象をもつのである。以前、今から20年前頃、1985年頃に読んだときは、もっとなんらかの精彩を感じたが、今(2005年)、読んでみると、このような影の印象が強いのである。確かに、狂気のリアの吐き出すせりふやその他の人物の言葉には、見るべきものがあるが、それらは、表層に過ぎず、深層が隠れているという印象である。つまり、もっと根源的なものは、この劇には、表出・現出されていず、暗示されているという感じがあるのである。この悲劇は、表面的には、古い王権体制とそれを破壊するエゴイズムとの闘争を表現しているのは誰でもわかることである。中世と近世/近代の戦いと言ってもいい。それは、表層である。
 では、背後の力、根源的なもの、深層の力とは、何なのであろうか。それは、荒野での狂乱のリアが口にする言葉から暗示されると思う。それは、自然や社会を根源的に生成する力、宇宙や世界・地球を動かすような力のように思える。福田恆存は、コスモス的なものが三つの大悲劇(『ハムレット』、『マクベス』、『リア王』)には感じられると言っていたが、確かにコスモス的な力とこの根源の力を呼べないことはないと思う。しかし、私の印象では、この根源力とは、とても暗い力である。そして、この暗い力をシェイクスピアは十分には表現していないと思うのである。この根源の暗い力に駆動されながらも、表象的には、中世と近世との闘争という一般的な形式となっているのである。だから、この劇は、表層と深層とのズレがあるため、言葉が表面的になり、感動までには達しないように思うのである。そう、無意識と意識とのズレと言ってもいい。後者の意識は、どちらかといえば、凡庸であり、軽薄である。思うに、シェイクスピアにとっての不幸は、無意識を表現する適切な媒体が彼にはなかったように思えるのである。演劇は観衆を喜ばせないといけないから、妥協的になる。そこで、根源的な無意識を直截に表現することができないのである。思うに、これらを表現するのは、ロマン派以降ではなかったと思うのである。そして、イギリス文学では、D.H.ロレンスにこの一つの頂点を見ることができると思う。(ロレンスのいわゆる「暗い神」とは、この根源の力と通じると思われる。)
 さて、次に、この暗い根源力を、ニーチェの『悲劇の誕生』の考え方と比較してみよう。当然、ディオニュソス的なものとの比較である。私は以前、比較したことがあるのだが、今から見ても、暗い根源力はディオニュソス的なものと通じると思う。それは、簡単にいえば、宇宙の生成力である。不連続的差異論からいえば、メディア界の強度である。それも、イデア界を指向する強度であって、現象界への連続的強度ではない。時代の転換期にこのディオニュソス的なものが発動すると言えるだろう。差異の強度と言ってもいいだろう。ニーチェの論述だと、合理主義に対する非合理主義の肯定と説かれるが、必ずしもそうではないだろう。差異の力を基礎とする「知」がここにはあるのである。連続的同一性の基礎とする近代合理主義(イデオロギー的合理主義)とは別の知であり、いわば、叡知である。ということで、シェイクスピアのいわゆる四大悲劇の中の『リア王』には、暗示ではあるが、時代転換期に出現するディオニュソス的なものが駆動していると見ることができるのである。そして、この暗い根源力の十全な表出はニーチェやロレンス等を待たなくてはならなかったと言えよう。ポストモダンとは、この力をベースにした叡知を指向しているのだろう。思うに、現代は、ディオニュソス的なものの情動性は、反日デモにも発動しているのだろうし、経済的営為としては、ライブドアホリエモンの経営に現れているのだろう。ディオニュソス的なものとは、スピノザ的な心身平行論の叡知性をもつのである。そう、グノーシス主義に近いだろう。後で、ディオニュソス的なもの、グノーシス主義、不連続的差異論を比較してみたい。ディオニュソス的なものと特異性・差異はつながるものである。