コギト的特異性と普遍性

コギト的特異性と普遍性について考えたい。これまでの検討から、差異的個とは、多数の差異の連結であると考えた。では、個という意識はなんであろうか。自我ではなく、個としての「私」=コギトの意識である。これは、多数・多元的「私」になるだろう。おそらく、ヒュームは正しいのだろう。多数・多元の「私」があり、一元的自我とは、連合・連想に過ぎないだろう。ならば、ここで、犯罪の問題が出てくる。私が人殺しをしたとしよう。殺害した「私」は、今の「私」とは別人であるということになる。これは難問である。ここで、政府による審議会を考えよう。BSE問題で科学者は、全頭検査をしなくても、それほど危険率は高くはならないと言ったが、それは、確かに客観的に言えばそうであるが、しかし、危険があるのは否定できない。この場合、審議会に参加した科学者の立場はどうだろうか。科学者の個体性としては、審議をすれば、それで認められるだろう。しかし、その結果、全頭検査をしなくてもよいということになったならば、どうだろうか。その審議会に参加した科学者は特異性としては責任があるだろう。ここに個別性と特異性の違いがある。個別性とは一般性に同化される。つまり、連続的同一性である。しかるに、特異性は、連続的同一性に吸収されない。結局、その科学者は、審議会に参加したという特異性があるのであり、それは、否定できないだろう。つまり、多数・多元性の特異性の一つであるということであり、審議会への参加という一つの特異性は否定できない。そして、特異性=普遍性である。つまり、多数・多元的普遍性があるのであるが、おのおの普遍的であり、それはゆるがせにできないということになろう。だから、先に殺人の問題であるが、殺人を犯した「私」は、今の「私」とは別にであるが、しかし、殺人という特異性は残っているのであるから、殺人の罪があるのである。
 また、これを戦争問題に関係させると、日本国が戦争でアジア諸国に多大な被害を与えたという特異性は否定できないのである。過去は水には流せないのである。過去の過失は特異性として永久に残るのである。(もっとも、それを、未来思考的に積極化すべきである。)特異性の積み重ねとしての現在や未来があるのである。