連続的知性と差異的知性

連続知性と差異知性(心身知性)について

近代自我合理主義とは前者であり、言語的同一性をもつ。後者は、個に即した知性であり、ほぼスピノザの心身並行論に通じるだろう。権力とは、前者的であり、他者を認めないのである。専断・横暴である。日本の政治家や資本家や知識人等はそのようなものである。連続知性とは、ただ言語観念を働かせるだけであり、精神ないし心身性がなく、それは自我中心主義である。エゴイズムである。戦後近代教育は、前者的であり、利己主義の人間を形成してきた。しかし、道徳をここで主張するのは、反動的である。 では、差異知性とはなにか。それは、スピノザ的な観念である。自己感情を認識し、同時に能動的な観念を形成するという知性である。つまり、ここにあるのは、一歩進んだデカルト主義であろう。つまり、身体ないし身心的思考である。これは、個に基づく思考であり、不連続的差異の思考である。これによって、知性は脱権力・脱暴力化するのである。自律思考である。これが欠けると、連続思考、権力思考になり、集団的思考となるのである。靖国参拝はここから来るだろう。