特異性と普遍性:検討問題1

差異の連結として、個の原型があるとしよう。それはメディア界的原型である。そこから、時空間が生まれ、自然現象が生じる。思うに、個とは、この原型の特異性のことである。人間以外の生物ならば、個の特異性を感じないだろう。つまり、個体即普遍である。換言すれば、原型的個体性はあるが、原型的特異性はないということである。ならば、この個体性と特異性との違いは何であろうか。 人間の場合、特異性をもつとは、実は、言語認識と対をなす事柄ではないだろうか。言語とは個別性=一般性である。一般形式性である。そう、カントの超越論的形式性である。それに対して、唯名論的個体性があるが、それは、一般形式と対になっているものだろう。言語のリンゴとここにある一個のリンゴ。特異性とは物自体としてのリンゴであり、言語や個物のリンゴの両者を超えている。だから、前言を取り消して、特異性は言語認識と対をなすのではなく、それ以前のものである。物自体である。では、動物の場合、特異性はないのだろうか。たぶん、動物の場合は、特異性と個体性とが未分化なのだろう。おそらく、動物はメディア界的存在なのだろう。だから、地震の予知ができるのだろう。メディア界的「パラ感覚」=差異感覚によって、人間にはない電磁波等をキャッチできると考えられる。(人間は、言語化・連続的同一化して、メディア界的差異感覚を隠蔽している。)結局、言語認識をもたない動物には、特異性は問題にならない。言語認識から特異性が発生するのである。これが、コギトである。これは、多数・多元的差異性である。そして、言語的同一性があるだろう。これと、特異性が結合するのだ。だから、過去の私は現在の私とは別存在であっても、それは、言語的同一性的特異性ということで、私ということでは変わらないということになる。多数・多元的な私、一つ一つが、特異普遍性である。あるいは、普遍的特異性である。そう、こういうことなのだろう。差異と差異との境界ないし多数・多元的な差異の境界として「私」が存する。この境界は変化はするものの、基本的には普遍である。この多数・多元的差異の境界としての「私」が存するということだろう。だから、特異性とは差異であり、普遍性とは境界ではないか。すると、特異性=普遍性という公式は変えないといけなくなるだろう。それはほぼ正しい公式ではあるが。特異性/普遍性というのが差異/境界のあり方となる。これは後で再検討したい。