多数の差異と境界共立自己:差異的特異性と境界普遍倫理性

差異の多数性とは、たとえば、身体が多数の差異とすれば、感覚とは多数の差異の感覚であり、それを感受する意識は当選多数の差異の感覚を知覚する。しかし、連続的同一性の言語自我は、差異を捨象して、感覚を同一性化する。とまれ、多数の差異の感覚や多数の言動に私が存し、それぞれ私である。多数の私である。しかし、その多数の私は、先にも述べたが、境界=普遍性=私であるから、私の多数性に責任がある。倫理と言ってもいい。もし、多数の私を不連続としたら、責任はどこに存するのか。10年前の私、1年前の私、昨日の私が、現在の私と完全に不連続ならば、責任はどこにあるのか。3年前殺人を犯した私と今の私が、不連続ならば、殺人の罪はどうなるのか。
 先に私は、境界が普遍的でそれが「わたし」となると述べた。しかし、もっと精緻に考えないといけない。身体は多数の差異であるとしよう。そして、その感覚・感受が知覚・意識である。そしてこれが、自己意識を形成する。しかし、自己意識とは連続的同一性的、イデオロギー的存在である。つまり、差異を捨象した、虚偽的存在である。自己の差異に不誠実な虚偽存在である。(とりわけ、権力的存在がそうである。)だから、境界=普遍性=「わたし」という時の「私」とはコギトでなくてはならない。多数の差異を感覚・意識・認識するコギトである。そう、これを境界的自己と呼んでもいいだろう。それに対して、連続的同一性の自己である自我があるということになる。だから、境界的自己とは、不連続的な差異を認識している自己である。つまり、多数の差異からなり、それがまた生成変化するのを知っている自己である。そして、不連続的な差異という特異性それぞれを引き受ける自己である。つまり、不連続的差異的自己である。だから、不連続的差異的境界連結である自己である。正しくは、不連続的差異的境界共立自己である。この境界共立自己が、責任ある、倫理のある自己である。簡単に言えば、不連続的差異的自己である。そう、スピノザの言葉を使用するならば、不連続的差異の一義性であり、この一義性が境界共立自己である。多数であり、生成変化する自己ではあるが、一義性は変わらないのである。これはつまり、差異境界関係は、位相としては変化するが、関係自体は不変ということではないか。たとえば、差異1と差異2とは位相的変化はするが、差異1/差異2の差異境界関係は不変であるということである。この差異境界関係が境界共立自己であろう。変化の中の不変・不易・普遍である。だから、逆に言うと、差異のない人間はきわめていかがわしい、胡散臭い、邪心がある等々と見るべきなのだ。なぜなら、差異があってこそ、境界共立自己があり、責任・倫理感あるからだ。差異のない、差異を隠蔽した連続的同一性の自我的人間とは、いわば無意識の差異の変化変容に動かされる無責任・没倫理的人間である。日本において、「先生」といわれる人間が特にそうである。日本人は、自省した方がいい。