特異性と普遍性:絶対統一理論としての不連続的差異論:多神教=一神

特異性と普遍性:試論2

人間の特異性について考察したい。まず、イデア界に複数ないし多数の不連続的差異が存し、それらば90度回転して、メディア界を形成したとしよう。そして、メディア界の連続性(正確には、疑似連続性)によって、あるまとまりが擬制される。これをとりあえず、人間の原型としよう。しかし、つまり、ある差異群は内臓となったり、足となったりするし、別の差異群は脳や他の神経を形成する、いわば身体原型である。この人間身体原型の鋳型は、差異自体にあるというよりは、差異を寄せるある「情報」にあると言えよう。これを形相としてはいけない。逆に、質料にこの「情報」がある。これまでの検討から見ると、質料はデュナミス=イデア界であり、形相はエネルゲイア=メディア界である。だから、「情報」はイデア界にある。そうすると、イデア界の「情報」とは何であろうか。プラトンならイデアで済んだであろう。しかし、不連続的差異論から見ると、境界によって共立する差異群が「情報」と考えられるのではないだろうか。そうすると、「情報」とは、おそらく、共立境界にあると言えるのではないだろうか。つまり、ある境界に「情報」があるということである。イデア界の境界を無限速度の超光とするならば、この超光が「情報」をもっていることになる。「光情報」である。この「光情報」が差異群をまとまりとして共立させるのだろう。そして、これが、90度回転によって、メディア界を形成するのである。このメディア界での差異群は、いわば卵のようなものだろう。神話で出てくるような根源の卵がこれに当たるだろう。そう、正にエネルゲイアの卵である。そして、これがエンテレケイアとして誕生・出生した子となるのだ。ということで、人間の原型は、メディア界の「卵」にあると言えよう。しかし、それは、人間動物・人間生物としての原型だろう。個・特異性・コギトとしての原型の起源はそこにはないだろう。それは、イデア界にあると見るべきだろう。では、イデア界の何にあるのか。これは不思議に思えるかもしれないが。「光情報」の「差異」にあると思う。つまり、「光情報」は、特異性をもつのであり、それ自体も差異的であると見るべきなのだ。つまり、こういうことのように思える。イデア界の不連続的差異は、普遍的なものである。差異1/差異2/差異3/・・・/差異nがあり、これを人間動物の差異的原型とすると、これは、万人に共通である。極論すると、差異1が手になり、差異2が足となり、等々である。(もっとも、万能細胞があるので、このように単純化はできないのが、便宜的にそうするのである。)だから、このイデア界的差異群においては人間は共通である。ここでは、実念論唯名論は一致するだろう。しかるに、私はこれまで特異性を述べてきた。そして、特異的差異性を述べた。そして、いちおう、特異性=普遍性と述べてきた。多数の普遍性があると。すなわち、特異的普遍性である。しかし、新しい検討から、差異と普遍性を区別した。すなわち、特異的差異性と境界的普遍性である。かなり複雑になってきたので、整理しよう。つまり、差異的普遍性と特異的普遍性があるということではないか。では、差異と特異性はどうちがうのかとなろう。差異とは、いわば存在的なものであり、特異性とは認識的なもののように思われる。だから、差異とは、イデア界の存在を指すのであり、特異性とはイデア界の存在の関係、即ち境界を指すと言えよう。しかしながら、ここで注意しなくてはならないことは、差異=存在、境界=認識とは根本的には不可分であるということである。差異があれば、境界を生じるのである。境界があれば、差異があるということである。差異があって境界がないということはなく、境界があって差異がないということでもない。だから、差異と境界は不可分的一体と言える。私は以前、知即存在として差異を述べたが、それはこのように見るべきだろう。結局、差異即非境界である。そして、この即非が特異性=普遍性ということだろう。あるいは、特異性即非普遍性だろう。結局、大きく分けると、二つの普遍性がある。差異=存在的普遍性と、境界=認識的普遍性である。
混乱したので、ここで再び整理すると、差異即非境界こそ特異性であろう。すなわち、差異=存在と境界=認識との即非の普遍性が特異性ということである。
では、所期の問題に戻ろう。人間動物・生物の原型は、イデア界の差異群にあると見ていい。差異1/差異2/差異3/・・・差異hという差異群である。そして、個としての原型は、差異境界の「光情報」にあるということになろう。これはどういうことだろうか。差異即非境界である。この非の部分に注意すべきだろう。もし、即の部分だけを見れば、個という差異はないことになる。差異非境界である。境界=「光情報」は、認識である。差異=存在とは独立した知をもつ。そして、おそらく、境界=「光情報」の「差異」があるのだ。これが一番神秘的に見えるところではないだろうか。つまり、これこそ、「神」の領域ではないのか。「神」の知の領域である。「光」の知である。あるいは、超光の知、超知である。ここで作業仮説であるが、現象界の経験の情報がここに蓄積されるのだ。いわば、「神」のハードディスクの中の情報である。記憶の永遠倉庫である。そう、人間の身心に刻印された記憶がこの「光倉庫」に蓄積されるのだ。つまり、精神ないし意識・無意識の記憶がイデア界の「光倉庫」に蓄積される。では、その記憶の媒体は何か。光だと思う。あるいは、超光である。精神は光だと思う。この光が記憶し、これがイデア界の「光倉庫」=「光情報」に蓄積されるのだ。思うに、プラトンが『国家』の洞窟の比喩で述べた太陽とは、これを指すのではないだろうか。すなわち、イデアの光=太陽とは、イデア界の境界であり、現象界の光とは、連続化された差異を通して見るイデア界の太陽ではないか。つまり、現象界において、人間は、目を通して、現象を見るが、その光の根源は、実はいわば背後にあるのであり、裏返しの太陽・光を見ているのではないか。つまり、現象の太陽、光とは、実はイデア界の境界である原太陽の影絵であり、同様に物体・現象は、差異の影絵ないし残像であると言えるのではないか。このように見ると本当に観念論・唯心論的になる。しかし、気をつけるべきは、現象は内面の投影ではない、つまり、観念論・唯心論ではないというということである。つまり、ここで問題になっているイデア界とは、内界や外界にあるというものではなくて、いわば無界、空界ないし超界にあると言うべきだろう。この無・空・超界にある差異/境界が根源界であり、このいわば投影・投射・射影・幻燈・影絵として現象界があるということである。
とまれ、以上を確認すると、境界=「光情報」に、個の根源があるということである。そして、境界には、おそらく無数の「光情報」があるのだ。この「光情報」が人間には内在しているのであり、これに接続することで、人間は叡知に触れることができるようになり、愚者から賢者へと変容しうるのだ。(小泉よ、ブッシュよ、大愚者を卒業せよ!!!)おそらく、宗教、哲学、神秘学で言われてきた覚醒や悟りとはこのことを指すのではないか。また、折口信夫の『死者の書』の死者(大津皇子・日の御子)の再生、あるいはD.H.ロレンスの『逃げた雄鳥(死んだ男)』におけるオシリス・イエスの復活は、太陽神の新生を意味するが、それも、このことを意味するのではないか。つまり、イデア界の境界であり「光情報」・超光の覚醒のように考えられるのではないか。
さて、最後に整理すると、イデア界の差異とは存在(原存在)であり、それは存在的普遍性であり、また差異の境界は認識であり、それは認識的普遍性であり、差異即非境界の即非の普遍性が特異性である。そして、人間の個とは、境界の「光情報」によるのである。そして、境界の「光倉庫」には、万物万有の記憶が蓄積されているだろう。これがいわば「神」に当たるだろう。太陽神であり、また「八百万の神々」と言ってもいいだろう。折口が考えた「産霊(むすび)の神」である。スピノザの神=自然である。では、これをどのように表現したらいいのだろうか。おそらく、多神教である一神教であり、一神教である多神教であろう。以前、私は、多神教一神教の併存と言い、多神教一神教あるいは、万教帰一ではないと言ったがどうだろうか。思うに、多神教一神教の相補性と言えば的確なのではないだろうか。境界の「光情報」・「神」とは、一神教多神教の相補性を成しているということでいいのではないだろうか。結局、万教帰一ではない。一に還元されないのである。多であったり、一であったりするのである。