いわゆる一体感とは何か:不連続的差異論の視点から見る

これは、不連続的差異論のメディア界の問題である。差異は他者への倫理感をもつが、しかし、あくまで差異保存、自己保存をベースにする。(ホリエモンの経済観は、まさにこれである。)では、一体感とは何か。それは、連続的同一性の意識であろう。自我の意識であろう。だから、一体感はメディア界というよりは、現象界の意識である。メディア界の意識は、連続性と不連続性が併存しているから、批判性をもつ。それに対して、現象界の意識とは、他者と連続しているのだ。だから、一体感が生じるのだ。これは、暴力である。家族主義というのは、これである。親の子供に対する支配である。 
 では、D.H.ロレンスが説いたコスモスとの一体感とは、現象界の連続的同一性と同じだと見ていいのだろうか。これは、神秘主義のミクロコスモス=マクロコスモスの意識と関係する問題だろう。直感では、コスモスとの一体感とは、ロマン主義的で、現象界の一体化とは異なる。それは、メディア界の強度だろう。考えるに、メディア界の強度とは、連続性/不連続性の両面をもつが、この連続性が、コスモスとの一体感だろう。しかし、この連続性は不連続性を内包しているだろう。つまり、イデア界・本体界を内包している。つまり、コスモスという総体性とは、イデア界を指していると言えよう。だから、ロレンスが説いたコスモスとの一体性とは、現象界的連続性と見てはならない。
 ならば、神秘主義や占星学の説くコスモスやグノーシス主義の真実界とは、イデア界であり、霊、霊魂、魂とは、実は差異イデアのことと考えられる。そう、差異イデアは確かに、普遍であり、不滅である。しかし、考えるべきは、ここから、輪廻転生を引き出すべきではないことだろう。なぜなら、イデア界の差異イデアとは、境界によって隔てられているのであるから(つまり、不連続ということ)、霊、霊魂、魂というべき連続体は、イデア界に存していないからである。つまり、霊、霊魂、魂とは、メディア界の強度の幻影である。つまり、メディア界のもつ強度の連続性によって、幻影として霊・霊魂・魂が幻影されるのである。(ここで、宗教とは、メディア界的観念であることがわかるだろう。)だから、真に存するのは、差異イデアと境界であり、その不連続性である。
 では、私が述べた特異性=普遍性とはどういうことになるだろうか。また、特異性とは何かである。特異性とは、差異イデアである。そして、多数の差異イデアが、個の特異性ということだろう。「私」・コギトとは、多数の差異イデアのことであろう。それは、一つではありえない。単独性という言葉は誤解を生むだろう。単独性とは、実は多数の差異である。 
 後で、一神教多神教について、以上の視点から見てみたい。