差異と強度について、「星座」とは何か:占いとは何か

黄道十二宮

[不連続的差異論] 差異と強度について


差異とは知即存在である。これは、精神/身体に変換できる。結局、なにかすぐれたものとは、両面の均衡をもっているものである。知性中心とは無知である。また、感性中心も無感性であろう。そうではないのである。偉大なる差異があるのであり、それはいわば精神即身体である。結局、今日、ここに帰結しているのである。差異とは偉大である。また、差異と差異との共存であるイデア界とは偉大さの極致である。超至高である。そう、不連続的差異論が初めて、イデア界を解明したのである。最勝超至高と私は呼んだ。



[不連続的差異論] 「星座」とは何か:占いとは何か


「星座」の意味


差異/強度という差異共立構成態がメディア界であり、太陽系というものも、このような仕組みと考えられる。そして、占星学でいう「星座」も、このようなものと考えられる。では、「星座」の仕組みを検討しよう。
 先に、作業仮説として、太陽系の差異・イデアとして、5個の差異(「惑星」)と極性(プラス/マイナス、陰陽)をあげた。そして、連続態として正五角形/ペンタグラムをあげた。72(正五角形の角度)×360(一回転)=25920年(プラトン年:歳差運動によって、太陽が見かけの黄道を一周する年数)という等式をみた。そして、魚座双魚宮)文化期はプラス・エネルギーの強化された時期であり、精神と身体の二元論が生起したと考えた(イエス・キリストの文化期)。そして、今や水瓶座宝瓶宮)文化期に移行しつつあるのであり、マイナス・エネルギーが作用して、ゆらぎ、身体のゆらぎ、差異、特異性が喚起されているということであった。ここまではわかりやすい。では、魚座文化期、水瓶座文化期等を形成しているいわば順列とは何かである。差異の順列である。単純に考えれば、5個の差異であるから、順列は、5・4・3・2・1=120通りである。つまり、「水星」・「金星」・「火星」・「木星」・「土星」の5個の順列となる。これは物理的な順番ではない。理念的なものである。しかし、このような数は「現実」的ではないだろう。別の見方が必要なようだ。すなわち、精神と身体というような見方であり、精神は太陽/月、身体は月/惑星に関係するという見方である。すなわち、差異/強度の考え方である。太陽/月とは、差異強度的であり、月/惑星は、差異的である。ここで、具体的に考えてみると、魚座文化期とは、太陽/月がプラス・エネルギー的であり、月/惑星が隠蔽され内包された時期である。そして、今日、水瓶座文化期への相転移期にあり、マイナス・エネルギーが作用して、月/惑星がゆらぎをおこしていると見ることができるのである。つまり、太陽/月とは極性エネルギー的であり、月/惑星はゆらぎ的ないし身体的と見ることができよう。すなわち、太陽/月とは精神に関わり、月/惑星は身体に関わるということである。差異強度が精神に、差異が身体に関わるということである。ここから、魚座文化期を見ると、差異強度が過度にプラス・エネルギー化されていて、差異性、特異性、ゆらぎが隠蔽的に押し込められていると見ることができる。ということは、魚座文化期は、差異強度の極大化の時期、また差異性の極小化の時期であるということとなる。つまり、差異強度のプラス・エネルギーの全面化であり、不連続的差異論から見ると、いわば、イデア界と現象界との切断が生起したのである(もっとも、見かけであるが)。これを象徴しているのが、超越的一神教である。(ヤハウェは、「我有りありて、有り余れる神なり」とモーセに伝えた。)ということは、魚座文化期において、連続化が頂点に達したということである。連続化、連続的同一性が完成したことである。差異境界の疑似ゼロ化が完璧となったということである。つまり、差異の90度回転が生起した時期であるということである。これを象徴するのが、イエス・キリストである。神の現象化・物質化である。(ルドルフ・シュタイナーは、キリスト事件と呼んでいるが、確かに、世界史的事件であるが、実は、魚座文化期の創成である。キリストのシンボルは子羊と並んで、魚である。双魚宮である。今や、ポスト・キリスト教であり、「聖霊の時代」である。水瓶座の水とは、「聖霊」であり、イデア界と現象界との交通メディア(IT他)であり、霊感であり、ミューズであり、身体のゆらぎであり、差異・特異的感覚であり、カオスモス的感覚であり、そう一言で、ゆらぎである。メディア界である。)では、魚座文化期(ほんとうは、双魚宮文化期というべきだが、通俗名を使用する。また、文化は経済と言った方が正しいように思える。経済とは包括・包摂概念である。双魚宮経済エポックである。)とは、差異の90度回転の経済文化期である。ここで、プラトン年を使うと、360度回転で、25920年であるから、90度回転は、それの1/4である。25920年÷4=6480年である。そう、これは、占星学で言えば、双子座を原点とするサイクルである。牡牛座経済文化期、牡羊座経済文化期の3サイクルが90度を形成し、魚座となる。しかしである。これは、間違っているかもしれない。私は、魚座が、プラス・エネルギーが極大化する時期と言った。しかし、考えなくてはならないのは、キリストのシンボルが子羊であり、魚であるということである。双魚宮である。つまり、両極性である。二元論である。ということは、プラスとマイナスの対極的併存である。だから、プラス・エネルギーの極大化と言ったのは誤りであろう。極大化は魚座以前の牡羊座で生起したのだろう。だから、イエス・キリストとは、その中間である。だから、イエスは、子羊と魚の両方のシンボルをもつのだ。いわば、折衷の「星座」である。だから、90度回転とは、魚座以前の牡羊座で生起したのであり、魚座は、それ以後の120度である。だから、現在の地球文化期は、双子座ではなくて、蟹座から発しているのである。(ルドルフ・シュタイナーは、そのように述べている。蟹座が古代インド文化期であり、双子座がゾロアスター文化期であり、牡牛座がたぶんオリエント文化期であり、牡羊座がアーリア文化期であり、魚座イエス・キリスト文化期である。水瓶座文化期とは、聖霊文化期であり、これは宇宙・地球/新東洋文化期であろう。)
 ということで、魚座とは中間期なのである。前期はプラス・エネルギーが開花し、後期はそれのマイナス・エネルギーが発動するということである。社会主義共産主義とは、マイナス・エネルギーの試みであったと言えよう。しかし、やはり、折衷だから、崩壊したのだ。そして、今日、マイナス・エネルギーとして、IT経済文化が胎動しているのだろう。(因に、水瓶座とは、情報を意味する天王星が支配星である。)
 ということで、非常に迷走したが、結局、「星座」経済文化期とは、差異と強度、陰と陽、月と日との関係(関数)によって形成されるだろう。つまり、差異の回転強度によって形成されるということである。5個の差異と2つの強度の関係によると言えよう。しかし、根源は「陰陽」である。この配分・回転強度が規定すると言えよう。「陰陽」という回転強度、これは結局、差異の極性によるのではないか。差異の極性変化によって、回転強度が決まるのではないだろうか。5個の差異の極性・回転強度があるのだろう。この点の詳細は後で論じたい。ここで、付加すると、洪水伝説(プラトンによって伝えられている)であるが、それは、蟹座から始まった現代の太陽系経済文化以前の、文化の崩壊を意味していよう。アトランティスの崩壊とは、そのことだろう。ルドルフ・シュタイナーは現代の太陽系経済文化期をポスト・アトランティス文化期と呼んでいるが、それは、正しいのだろう。つまり、アトランティス文化期は獅子座で崩壊したのだ。獅子座とは「自我」の星座である。自我中心主義で崩壊したということだろう。すると、現代の太陽系経済文化期とは、ポスト自我主義であるはずである。すなわち、差異の経済文化期のはずである。思うに、魚座文化期は自我と差異との折衷であった(西欧文化はそのようなものだろう)。しかるに、水瓶座文化期とは、差異の経済文化期となろう。これは、「ポスト・アトランティス」文化期にとり、一つの頂点となるだろう。そして、ライブドアホリエモンのチャレンジとは、水瓶座経済文化期の強度である。これは失敗しないだろう。差異の必然による。「運命」である。


p.s. 以上の観点から見ると、イタリア・ルネッサンスとは正に中間点であり、宗教改革とは、反動なのだ。アメリカ資本主義は、確かに両義的(不連続性=差異=自由と連続性)ではあるが、今や(薮大統領)、完全なる反動である。そして、「アバンギャルド水瓶座経済文化として、ライブドアが出現しているのである。あるいは、IT経済文化が。ところで、民主主義とは、差異を原点とするものだ。これは、永劫革命である。


p.p.s. シュタイナーは、ポスト・アトランティス文化期を、1.古代インド、2.古代ペルシア、3.エジプト・カルデア、4.ギリシア・ラテン、5.西欧、6.ポスト西欧、・・・と区別している。(参考:http://members.aol.com/Satokimit/sixth_epoch.html
しかし、シュタイナーの占星学は通常とはかなり年代がずれている。たとえば、5.西欧文化期は、15世紀に始まるものと考えている。どうしてこのような相違が生じたのかというと、シュタイナーの西欧中心主義が一つあるし、またそれ以上に、キリスト信仰から来ていると思う。これは、彼の偏向だと考えている。実は、5.の西欧文化期とはイエス・キリスト文化期であり、6の文化期においては、過去のものとなるのである。しかし、シュタイナーはキリストを重視していて、年数が狂ってしまっていると思う。これは、さらに言えば、彼の連続的同一性によると考えられる。キリストを連続的同一性化しているのだ。キリストとは、実は、イデア界である。あるいは、イデア・不連続的差異である。シュタイナーは確かに、半分は天才的であったが、半分は俗物である。権力と妥協しているのだ。イエス・キリストを説くことで、西欧人に媚びているのだ。とても、卑しい人間である。ポスト・キリスト教を説いたD.H.ロレンスの方がはるかに偉大である。


画像以下から
http://www.chezblum.com/zodiac.html