氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまった

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氣的生命体と物質体:陰陽氣(生命原子)と量子(物質原子)はまったく異なるものである


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


端的に言えば、ガウス平面において、虚軸が氣であり、実軸が物質である。
 このように考えるのが、明快である。
 陰陽方程式は、陰凹i*陽凸i⇒±1であるが、問題は、+1と−1の意味である。
 PS理論が破綻し崩壊してしまったのは、端的に、この問題にあると言える。
 
 以下、修正必要であるが、わかりやすくするために、『海舌』氏の人間認識図を提示する。


      『海舌』氏の人間認識図(要大修正)


(要注意:
1)虚軸の陽凸を光、陰凹を闇とするのは、間違いであり、前者は陽凸i⇒陽自我【知性】とし、後者を陰凹i⇒陰自我【感性】とする。


2)実軸+1=存在・現存在、実軸−1=超越的存在とするのも誤りで、+1と−1を電極、磁極の極性と見る。


3)記述されている象限の見方も誤りとし、新しい視点では、第一象限は理性、哲学、第二象限は科学、知性、第三象限は生活、第四象限は直観・直感、芸術、のそれぞれの領域・圏と見る【暫定的である】。


4)原点をMP【Media Point:メディア・ポイント】とするが、虚軸上の原点をMP1、実軸の原点をMP2とする。そして、極めて重要なことは、MP1とMP2が不連続・非連続であることである。MP1⇒MP2はあるが、逆、MP2⇒MP1は成立しない。だから、先に、陰陽方程式を陰凹i*陽凸i⇔±1にしたのは誤りであり、訂正する。陰陽調和心は原点、即ち、MP1に存する。そして、それは、MP2を派生するだろう。D. H. ロレンスのセクシュアリティはこのMP1とMP2の連結にあるだろう。


5)これは、作業仮説的であるが、植物の氣は当然、虚軸に存するのであり、これは、動物にも存するが、動物的身体は、実軸が主導的だと思う。それに対して、植物的身体は虚軸が主導的だと思う。つまり、植物は氣が主導的であり、動物は物質が主導的である。言い換えると、植物と動物、当然、両者、氣的身体【ガウス平面の虚軸と実軸の十字架】をもつが、前者は虚軸の氣が主導的で、後者は実軸の物質性が主導的である。ただし、人類は動物から植物へと進化の過程にあると見る。)


 今思いついたが、(もっとも、以前考えたことだが、)+1と−1を物質的極性と見ることである。つまり、磁界や電界の極性である。つまり、NとS、プラスとマイナスである。
 電子で言えば、+1が陽電子であり、マイナスが陰電子である。磁界で言えば、+1がN極であり、−1がS極である。
 電磁波は両者を合わせればいいだろう。つまり、+1と−1は電磁波を表わすということである。とまれ、実軸が物質軸であるというは納得しやすいだろう。
 ここで、原子を考えると、原点(MP)が原子核で、±1が電子ではないだろうか。(追記:原子核は、正しくは、MP2、即ち、実軸上の原点とすべきである。)
 そう、本来、虚軸の陰陽極子(造語:つまり、陰陽極性)を内在超越的にもちつつも、物質的には、実軸的存在である原子ということになる。言い換えると、氣的原子であるが、物質科学は、当然ながら、氣の内在超越的存在を見ていないということになる。
 結局、原初的には、氣的原子があり、それが、生命体を形成することになるが、その生命体が崩壊したとき、純粋物質が生まれると私は仮説するのである。
 つまり、氣的原子から、氣が喪失されたとき、純粋物質、この場合は、純粋原子、つまり、普通の原子になると考えられる。
 だから、物質科学とは、実軸の力学だけを見ているのであり、虚軸の氣の力学を看過しているのである。
 それ故に、量子論においては、虚軸成分が関係すると考えられる(追記:この箇所は、以下の説明からわかるように、正しくない。虚軸成分の影、影像が関係するのであり、虚軸成分自体とは関わらない。そう、正に、プラトンイデア論の世界である。虚軸ないしMP1はイデア界であり、実軸ないしMP2は現象界である。)ので、物質科学は矛盾を抱えたと考えられるのである。それは、粒子と波動の二重性に見られるのである。
 何度も言っているが、量子とは、氣の物質的影像であると考えられるのである。つまり、原点における氣の物質的影像が波動であり、実軸において、粒子になると言えよう。
 とまれ、以上から、唯物科学である自然科学は、ガウス平面の実軸を中心とした科学であるのがわかる。ただし、原点(MP)において、虚軸成分の氣の影像が入るのであり、それが、量子論を構成するのである。(言い換えると、量子論とは、氣の「科学」が一部入っていると言えるだろう。)
 そして、原子力科学とは、この実軸中心科学の帰結と言えるのであり、それは、生命の根源である虚軸の氣を喪失した科学と考えられるのである。
 問題は、原点(MP)である。果たして、それは、虚軸成分をもつのか。
 今、直観で言えば、実軸において、虚軸成分がなくなっても、原点においては、波動と粒子の相補性の性質を残しているように思えるのである。
 だから、実軸科学である原子力科学において、当然、量子論が成り立つのだろう。
 つまり、波動と粒子の相補性の法則とは、氣の法則ではなく、物質の法則に過ぎないということになる。
 以上から、氣の影像としての波動と粒子の相補性ということになるが、氣の本体と影像はまったく異なるということになるのである。つまり、MP1(虚軸上の陰陽交点)とMP2(実軸上の原点)とは、不連続であるということである。
 だから、量子論でさえ、物質理論に過ぎず、内在超越的な氣をまったく捉えていないと言えよう。
 今はここで留める。








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日本父権自我を解明する:傲慢と隷従の日和見的賤民的自我:二重悪魔連続的同一性自我


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史


今は一言。
 典型的な日本父権自我は、他者への侮蔑的態度があるが、その他者とは、自分の利害に関わらない小さなサークルにおけるものであり、自分の利害が関わる社会においては、強者となる他者には隷従するのである。
 この力学については、先に説明したが、より明快に解明したい。
 とまれ、今は、予見のみ。
 尊大傲慢さがあり、他者を侮蔑、嘲り、侮るのを当然とする。この傲慢さは、陽自我凸iから主に来ているだろう。自我尊大、唯我独尊性である。
 しかしながら、先に述べたように、単に陽自我だけでなく、欲望・感情の陰自我凹iが基底にあるだろう。そう、嘲りという感情は、陰自我から来ているだろう。
 他者を無みするという悪意的感情があるのである。他者を軽蔑、侮蔑、嘲笑、軽侮する悪意的感情である。これは、当然、他者への憎しみ、嫌悪があるのである。
 これはどこから来るのか。
 他者を認めるには、陰陽調和心が必要である。陰陽の一の氣の心・精神が必要である。
 しかし、父権自我とは、もともと、それを否定するものである。
 そして、日本父権自我の場合、父権自我の元の陽自我傾斜から、陰自我への傾斜が生起し、両者が連続的同一性を形成すると考えられる。
 この日本父権自我はそして利己的に自分の損にならない限り、他者を否定するが、自分の強者に対すると、利己的に隷従するのである。この強弱の唾棄すべき二面性が日本父権自我にはあるのである。(これを明治「近代」以降の日本の権力層の心的構成と見られよう。)
 西洋近代文化は父権的であるが、他方、他者の肯定の文化(新母権的文化)を形成してきたのである。例えば、民主主義は本来、そういう意味をもつ。
 しかし、明治「近代」以降の日本は、伝統本来の母権主父権従の母権文化を明治維新で否定し、父権主義的変革によって、他者を否定する心的構成を形成してきたと言えよう。
 これは、アーリマン/ルシファーの合体した極めて凶悪な悪魔的心性である。
 日本父権自我とは二重悪魔の連続的同一性自我である。


追記:補足しないといけないことは、以上の説明からわかるように、日本父権自我は、主体性がないことである。他者、相手に応じて、態度をカメレオンのように、変えるのである。
 だから、没創造的であり、且つ、権威主義的である。
 強者に対しては隷従するので、当然、利用されるのである。つまり、騙されるのである。日本の政治が專葬邪に利用されるのは、この日本父権主義の受動性に存していると言えよう。
 普通に考えれば、父権主義は、主体性があるのであるが、どうして、日本父権主義には、それがないのか。
 一見、日本父権主義とは、母権主義と呼びたくなるだろう。しかし、やはり、父権主義と考える。
 即ち、日本父権主義とは、父権主義のきわめて、デカダンス(堕落腐敗)した様態だと思われる。
 西洋の場合、一神教によって、父権主義が規定されると見ていいだろう。勿論、物質的な権力も要因である。
 唯一神が、父権的能動性・主体性の基盤であろう。
 しかし、日本父権主義の場合、そのような一神教的基盤を喪失していると思われる。
 一神教に近いのは、当然、天皇制である。
 しかしながら、神道八百万の神々の精神世界であり、且つ、天照大神、大女神が主宰神である。
 よって、最初は、一神教的だったかもしれない日本父権主義は、多神教や女神宗教(母権宗教)によって、中心性が阻害されていると思われるのである。逆に言えば、それほど、母権主義が強かったと言えよう。
 故に、日本父権主義は父権主義本来の主体性、能動性、中心性をもっていないと考えられるのである。
 そして、このいわば脱中心化された日本父権主義であるが、それは、陽自我の脆弱さを意味するのであり、おそらく、そのコンプレックスが、陰自我の暗い感情・欲望となったと思われる。
 そう、脱中心化された日本父権主義と言ったが、では、中心は何であったのか。
 宗教的中心は多神教や女神宗教(母権宗教)であるが、権力的中心は、中国と思われる。中国の父権主義に対して、日本父権主義は脱中心化されたと考えられるのである。
 だから、古代において、中国には隷従し、国内においては、尊大に振る舞ったと考えられるのである。
 このいわば劣等的父権主義が日本文化社会に流れとしてあったと思う。しかしながら、日本においては、母権主義が主体である。
 そして、江戸時代において、この劣等的父権主義が、増長して、国学を生んだと思う。それが尊王攘夷となり、また、脱亜入欧になったと思う。
 つまり、本来、劣等的父権主義であるが、それが、日和見的に、他者が弱いと見ると、傲岸不遜に振る舞うのであり、これは、陰自我の感情・欲望がベースにあるので、陽自我の知性の劣化した二元論となるのである。つまり、反知性的な短絡的二元論となり、盲目になるのである。
 この劣等的父権主義=日本父権主義が、明治「近代」以降、支配したのであり、その帰結が、AB凄犬なのである。
 脱中心化された劣等的父権主義、これが、日本父権主義の正体と思える。
 後で、さらに検討したい。


追記2:脱中心化された劣等的父権主義とは、言い換えると、属国的父権主義ということである。
 私が唱える新母権主義とは、陰陽調和心を基軸として、そこから、陽自我と陰自我との新たな調和を調音することである。


追記3:日本父権主義の中心の問題については、さらに検討が必要である。後で検討したい。


追記4:日本父権主義の脱中心化の問題であるが、整理すると、原理的には、父権的宗教をもっていたと思われる日本父権主義であるが、それが、母権主義の 「日本」(倭国)の文化社会環境において、父権自我が脱中心化されて、いわば、陰化されるのである。つまり、脱中心化され、陰自我的になるのである。
 しかしながら、父権自我の基本的である陽自我が脱中心化されたとは言え、陽自我自体は残っているのであり、それと陰自我が結合しているのが、日本父権自我である。
 この脱中心化された、陰自我と結合した陽自我が日本父権主義の特徴であり、これが、強者に媚び、弱者に傲慢となる様態をもつと考えられる。
 そして、古代においては、権力的な強者はおそらく、中国であったということができよう。
 とまれ、この父権主義の堕落様態である日本父権主義が、日本社会文化の一つの基調であり、それが、とりわけ、明治「近代」以降を支配してきたことを確認する必要がある。
 そして、それが、今日、亡国状態をもたらしていると言えるのである。
 そう、簡単に言えば、父権主義のデカダンスが、日本父権主義であり、それは、唯物論・機械論には適合したが、今日、創造性を必要とされる時代にとってはまったく反動で、大阻害要因、破壊的要因なのである。
 

参照:
◆ 2014/03/08(土)2  ロシアは世界一の情報発信国
ロシア:新たな巨大通信社創設
巨大通信社創設
ロシアに新しい通信社が誕生 した。海外向けにロシアについての情報を発信することが第一の目的。
新たな通信社は、既存の新聞社「ロシア通信」とラジオ局「ロシアの声」の合併によって創設された。
国際社会でロシアに関する情報を毎日伝える必要性を政府(とくにプーチン)が感じていることから、このような決定がなされたのではないかと、専門家は推測している。
プーチンのロシアが、世界に向けて情報を発信するパワーを強力に加速している。

グローバル化した世界では、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、文化的にも、国のイメージをアップさせない国家は(日本のように)信用を失い、衰退してゆく。

いま、ロシアからの情報を視聴し読む読者は日本でも激増している。

『ロシアの声 』のほうが、日本のマスコミよりもはるかに「客観的」で、「公正」で、「真実を伝えている!」と思う日本人が日毎に増えている。

これは、ロシアの影響力(や洗脳力)が加速していることだ。

たとえば、先日…、
日本人専門家(大崎巌氏)による『北方領土問題は政治的神話 』という論説が『ロシアの声』に載った。
ばっさりと要約すると…、日本政府と日本人が、北方領土についての今の考え方(歴史認識)を反省し、変えないかぎり北方領土は絶対に戻ってこない!という論調である。

読んでみると…、まことにもって正論なのである。大崎巌氏の主張を論破できる識者は、はたして日本にいるだろうか? (日本政府には、いないだろう!)

さらに!である。
大崎巌氏の論考は、ロシア政府の本音・本心でもあるのだ。
ロシアは、北方領土に関するロシアの本心を見事に本気で提示してくれた。しかも、その「本音の提示」は、日本人学者を使って、日本語で行ったのである。これが外交であり、知略であり、謀略でもある。

こういう外交・知略・謀略は、悲しいが、日本には出来ない。
日本は、あいかわらず「北方領土を返せ!」と…、外交や知略とは程遠い、議論にもならないスローガンをヒステリックに叫びながら、隣国憎悪を深めていくだけなのだろう。
飯山一郎のHP