視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態

視覚の問題:物質的視覚と氣的視覚:表情にある氣=精神の様態


テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ


ポスト唯物論の認識革命のための、基礎的考察である。もっとも、この問題は長い間検討してきているが、今一つ決定打がないようだ。
 有り体に言えば、氣的視覚というものがあると私は考えているのであり、それは、通常の視覚とは異なるということである
 シュタイナーなら、霊的視覚(霊視)に一気に到達するのであろうが、私はそこまでは言わない。
 具体的に言いたい。例えば、顔の表情であるが、これは、明らかに、その人の心の状態が顔の皮膚に現われるということであり、心、精神が物質に出現するということである。
 私は心、精神を氣ないし氣的に見ているので、氣が顔に発現したと見るのである。
 つまり、表情において、人は、いわば、氣を見ていることになるのである。
 そう、氣の様態(心持ち)が顔の様子を形成するということである。
 正確に言えば、表情において、氣自体を見るというのではなく、氣の力が形成する現象を見るということである。言い換えると氣の現象力の表層を見るということである。
 氣本体ではなく、氣のいわば末端を見るということになる。
 しかしながら、一般には表情を氣の末端とは見ていない。単に、感情表現と見るに過ぎないのである。
 とまれ、人には、なんらかの精神・心(性格、気質、人格を含む)があり、それは氣的であると私は見ているのである。
 つまり、氣の精神・心があるのであり、それは、氣的感覚をもっている。しかしながら、一般には、末端の表情だけを捉えて、本体の氣的精神・心(氣精神、氣霊、氣魂)を捉えられないようである。
 この氣精神(氣霊、氣魂)であるが、これは、これまで述べてきた陰陽調和心と言っていいと考えられる。
 今日一般には(昔の日本人は、氣精神をもっていたが)、氣精神が自我によって抑圧されていて、感覚できなくなっていると思われる。
 とまれ、氣精神を涵養すると、というか、氣精神を大事にして、培育(造語:培うと育てる:そう、氣育、氣養と言えよう)すると、自然現象、あるいは、現象一般における氣の存在が感受されると思われるのである。いわば、感氣、観氣ができるようになると思われるのである。
 そこで、本題の視覚の問題に触れると、氣精神を涵養させると、視覚にもその影響が及ぶと考えられる。そうすると、通常の物質現象的視覚に氣的視覚が入ることになる。
 つまり、物質内包的氣的視覚が形成されると思われるのである。氣本体の世界(氣界、氣霊界、氣魂界)があり、その現われとしての現象界があるように視覚・直観されると思われるのである。
 ということで、氣的視覚とはありうるのであり、氣育、氣養が重要であると言える。何故なら、ここには、真善美のイデア(一の氣)に通じると考えられるからである。真理、道徳、精神美の三位一体に通じると考えられる。
 最後に一言、以前、超越光(超光)というものがある、ないし、見えると私は述べてきたが、今や、それを明快に解明できるのである。
 即ち、私は陽光を介して、超越光(超光)が視観できると何度も述べてきた。(思えば、最近、それを感じなくなってはいるが、それはおいておく。)
 上述から、氣精神(氣精身)の氣視覚によって、陽光、日光、太陽光の氣的本体を視覚するのであり、陽光の氣的本体が超越光(超光)であると言える。
 日光の氣は超越光(超光)として、氣視覚、氣直観されるということである。


参照:

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日想観(じっそうかん)に先祖返りする飯山一郎役小角転生仙翁

・・・いが、結構できるものである。 ところで、飯山仙翁は、古代や中世あたりの日本人がやっていた日想観(じっそうかん)に先祖返りしていると言えよう。 日光は不可視の氣の「光」、超越光があると私は考える。当然、生命のスピリットである・・・[2013年10月02日]

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・・・アの目には見えない光線は「気」、「気不可視光」、超越光のこ・・・

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心の光と自我

・・・で、日光であるが、それは、陰陽球であると言ったが、外部は光子であり、内部が陰陽共鳴である。 心の光は太陽光線に、自身と同じ、心の光を見いだすように思われる。 私が以前、超越光と呼んだものは、この心の光(心光)だと思う。 そ・・・[2013年09月05日]

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宗教の光とは何ぞ哉:太陽とは何か:暗黒太陽ダークサンが太陽神(お・・・

・・・、その表層の光・可視宇宙・可視太陽・物質現象しか見ていないのである。 しかし、この暗黒は実は、光を超えた光ではないのか。黒々とした「光」ではないのか。 私がかつて言った超越光、超光とは、それに通じるのではないのか。私は光に・・・[2013年04月24日]

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不連続的陰陽イデア論:陰イデア∞陽イデアメビウスの輪と太一イデ・・・

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太極⇒陰霊*陽霊⇒MP⇒気⇒螺旋生命物質体:生命物質現象の根源は・・・

・・・自己(自我)を包摂できるので、即非共振様態を帯びると考えられよう。 だから、気を感受感知するのは、肚を介した胸=心臓(MP)であると思われるのである。 気の光(気光)=超越光(超光)も、そこで、視覚できるように思う。これは・・・[2013年01月20日]

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光と闇:二つの光と二つの闇:電磁波の光と気の光、無光の闇と気の闇・・・

・・・ような認識上の問題があるために、上記した問題が根本的に生じると言えよう。 だから、言い直せば、光は光であって、光以上のものである、というようになろう。 光以上のものとは超越光、超光、気の超光、気光である。追記:感性という用・・・[2013年01月18日]

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螺旋回転の力学:陰陽円における第一半回転物質過程と反転時点と第二・・・

・・・サイクルの始点に近づいているということである。 闇はますます濃くなるが、同時に黎明、曙光、夜明けの光がますます感じられる時代・エポック・エァラと考えられる。 私見では、超越光、気の光、大光が見え出しつつあるのだ。 そう、新・・・[2012年12月26日]

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光は闇であり、闇は光である:「きれいはきたない、きたないはきれい・・・

・・・ンス・モダン=気(霊)論=多神教(女・母神)注:上の図式(無双陰陽図式とでも呼ぼう)の陽を陽(光)、陰を陰(闇)とした。 ただし、それほど単純ではない。実は太陽光には、超越光が存すると思う。そう、気の光、気光である。それは・・・[2012年12月22日]

resurrectionのブログ: JaponAsia Gr・・・

http://search.ameba.jp/search.html?q=%E8%B6%85%E8%B6%8A%E5%85%89&aid=neomanichaeism







セクシュアリティと性欲は異なる:陰陽調和の植物的性と男性中心的性欲


テーマ:セックス問題:太陰的女性性とジェンダー


今は一言。
 私はセクシーさが根本的、本質的に重要だと考えている。
しかし、それは、性欲自体とは異なるものである。
 そう、セクシュアリティ、本来のセクシュアリティとは、実は、陰陽調和心において発生する精神、精身体だと思う。
 男性は、陰陽調和心において、陽的、雄蕊的であり、女性は、それにおいて、陰的、雌蕊的である。
 つまり、植物的な性磁力(陰陽牽引力を仮に、磁性に喩える)が本来のセクシュアリティである。
 それに対して、性欲とは、男性に拠る女性支配的な(父権的な)、動物的欲望(獣欲)である。
 因みに、D.H.ロレンスの表現した性愛は、実は、この本来のセクシュアリティ、陰陽調和の植物的性磁力を、身体的に表現したものと考えられる。
 植物的陰陽調和のセクシュアリティにおいて、思うに、女性が主軸(雌蕊)になり、男性(雄蕊)は補完的になるように思う。もっとも、陰陽調和であるから、女性と男性は対極的関係にある。
 今はここで留める。








反知性主義」とは、父権近代自我主義の帰結である:自我膨張し、自我妄念を他者(知性)に押しつける


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


もう少し説明したいが、今は一言。
 問題は言語概念知性と自我(陽自我)との結びつきが先ずある。例えば、ある対象は「山」であると認識する場合、それは、言語概念的知性(概念知性)である。
 この概念知性は自我(陽自我)と結びついている。だから、これを発達させていくと、自我(陽自我)が発達して、原初陰陽調和心が抑圧排除されていく。
 しかしながら、陰陽調和心にこそ、バランス知、自己と他者とのバランス知が存するのである。それは、理性と言っていいだろう。つまり、陰陽調和心とは理性である。
 さて、問題は発達した、概念知性と自我(陽自我)が支配するとき、もう一つの自我(陰自我)はどうなるのだろうか。
 これは、感情や欲望である。シュタイナーでいうと、アストラル体である。私は陽自我と陰自我が連続的同一性体を形成するという述べてきた。つまり、概念知性ー陽自我と感情・欲望ー陰自我が連続的同一性体を形成するのである。
 しかし、陽自我は、陰自我については無意識的である。陽自我は自我、ないし自己自身を尊大に肯定するのであり、隠れた感情・欲望ー陰自我を見つめる作業をしないのである。
 というか、感情・欲望ー陰自我と言語概念ー陽自我が融合したような状態であり、一種未分化的様態になっていると言っていいだろう。自我ないし自己は自分自身に盲目なのである。妄想状態とも言えよう。
 このような父権的自我が発達する以前は、まだ、陰陽調和心=理性があ り、自己と他者のバランスをもった知性があったが、それが発達し、陰陽調和心=理性が抑圧排除されると、父権自我において、知性は確かに、概念知性は増加 したが、それは、自我盲目の状態と一体化しているために、他者とのバランスのとれた理性状態における知性に対して、反感をもつのであり、反発するのであ る。
 これが、「反知性主義」と呼ばれるものの本質であると思われるのである。
 今はここで止める。


追記:補足すると、「発達した」父権自我は、陰陽調和心=理性=自他 バランス知性を否定しているのであり、それは、他者の否定を意味する。これは以前説明したが、陰陽調和心によって、陰我(凹i)が他者に変容するのであ り、この他者性が父権自我においては形成されないので、自我同一性に反する他者(知性)は否定されるのである。
 これが「発達した」父権自我の特徴の一つである「反知性主義」と言えよう。


追 記2:以上では、(言語)概念知性と陰陽調和心=理性=自他バランス知性の二つの知性があるが、「反知性主義」の「知性」は当然、後者である。理性的知性 である。前者は自我的知性ということになるが、実も妄念と区別がつかないので、それを知性と呼ぶのは問題がある。(近代的科学の問題はここにある。利己主 義が知性を支配して、知性を歪曲するのである。)
 そう、近代主義、近代合理主義とは、概念知性と唯物論と父権自我が一体となった主体に拠るものであり、必然的に、自我膨張し、妄念化するのである。科学的知性はそのような否定・暗黒面をもつのである。
 とまれ、概念知性であるが、それは知性ではなく、概念知ではないだろうか。つまり、言語概念知であり、それは、まだ、知性に達していない。科学的知が知性になるには、理性が必要である。理性において知は知性となるのである。
 ならば、理性と知性をどう区別するのか。これは、ヘーゲル哲学やカント哲学と関係する。
 知っている(知」だけでは、知性にならないということだろう。
 知っている(知)ということは、知識である。そう、言語概念知識と呼ぶのが的確である。
 だから、訂正して、(言語)概念知性ではなく、(言語)概念知識にする。
 すると、近代主義は知性主義というより、知識主義であったと言えよう。この大弊害があるのである。
 とまれ、知性と理性の区別の問題に戻ると、理性とは、陰陽調和心の主体の様態である。それは、知と感性と意志の三位一体、真善美の様態である。そのような理性における知の様態が知性ということになる。それは、思考と言ってもいいだろう。
 とまれ、理性がなけば、知性はないのである。理性がなければ、知識肥大の妄想自我になってしまうのである。これが、今日日本で爆発的に蔓延しているのである。父権主義の末路である。
 


●ためらうな、奈落の底まで突っ走れ! 反知性主義・安倍政権の末路をみせろ
http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/e7f4331fe28bca17a8ce45afb8a1e3bd

≪ 「反知性主義」への警鐘 相次ぐ政治的問題発言で議論 

反知性主義」という言葉を使った評論が論壇で目につく。「非」知性でも「無」知でもなく「反」知性――。政治的な問題発言が続出する現状を分析・批判しようとする意図が見える。

■自分に都合のよい物語 他者に強要  
  「嫌中」「憎韓」「反日」――首相の靖国神社参拝や慰安婦問題をめぐり日・中・韓でナショナリスティックな感情が噴き上がる現状を、週刊現代は問題視して 特集した(1月25日&2月1日合併号)。  元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。その中で使った分析用語の一つが 「反知性主義」だ。この言葉を昨年来、著書などで積極的に使っている。

 どう定義しているのか。

 「実証性や客観性を軽 んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世 界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動 を強要する」からだという。
世相を斬る あいば達也
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