二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒

二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデアイデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、


1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)


2)デュナミス(プレ・イデアイデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)


3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質


4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質


である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。


追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。

 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。

追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。


追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。


参考:

アリストテレス形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く


追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。







作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか


テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌


直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。








検討問題:父権自我力学、自我同一性力学につい:陽自我と陰自我と陰陽調和と他者


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


後で検討したい。
 もう一つ。ヤハウェという唯一神であるが、それは、PS陰陽論から見ると、超越性は一の氣(太一)から来ている。そして、唯一性は当然、陽の極大である陽自我から来ていると思う。
 もっとも、一の氣であるから、そこから、唯一性が来ているとも言える。
 しかし、一の氣は多元化(多神教化)するのであるから、唯一性は、一の氣と陽自我の一体化から来ているのではないだろうか。
 そう、太一において、陰陽力学が陽に極大化する時点がある。そのとき、一の氣は、陽自我の同一性と結びつき、一の氣は超越的唯一性を帯びると思う。
 思うに、その場合の陽自我とは、モーセの陽自我であり、それに、一の氣がいわばモーセに憑依したのである。それが、一の氣が陽自我(父権自我)のモーセに「唯一神」として憑依したと推察されるのである。
 陽自我であるから、陰陽調和心における内在超越性としての一の氣は感受されないから、内在性がないために、絶対的に超越性となると考えられる。故に、唯一的超越神となると言える。これが「ヤハウェ」の正体ではないだろうか。
 後でさらに検討したい。


追記:一の氣がモーセに憑依したというのは、意義深いように思う。
 というのは、現在、異常な日本人、なにか悪霊が憑依したような日本人が急増しているのは、根源にある一の氣(太一)が、作動しているからのように思えるからである。
 内在的超越的根源である一の氣(太一)が存在するのであり、それを父権自我、陽自我は抑圧しているから、当然、反動的に、一の氣が狂気として逆襲すると力学的に考えられる。
 それは、超越的なので、父権自我/陽自我の概念を独善化するのである。それで、妄想・狂妄・妄言となるのである。近代主義の問題がここにある。
 人間の思考は本来、内在超越性である一の氣に支配されているのであるが、近代主義は、それを否定しているので、必然的に、その逆襲つまり、反動狂気を受 けるのである。つまり、狂気としての近代主義なのである。(思えば、以前、近代的自我とは狂気であると私は何度も述べたものである。)
 ということで、父権自我、陽自我、とりわけ、近代的父権自我、陽自我は、一の氣を抑圧しているので、その反動的逆襲を受けるのであり、狂気に必然的に陥ると言えるのである。今はここで留める。





作業仮説:イデアである陰陽氣を陰陽子と見て、それが前生命原子ではないのか


テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌


直観では、陰陽氣は陰陽子のイメージであり、そう、卵のようなイメージなのである。種子でもあるが、イメージは卵である。あるいは、卵子である。
 卵、卵子としての陰陽子をイメージすると、それは、前生命の「アトム」ではないかと思われるのである。だから、陰陽子は、前生命原子と呼べるように思うのである。
 思うに、物質科学での原子はこの前生命原子を物質的に還元したものではないだろうか。つまり、前生命原子の前生命の陰陽を取ってしまったものである。つまり、高次元(内在超越次元:内超次元)としての陰陽次元が欠落しているということになる。
 言い換えると、前生命原子の死物としての原子ということになるのである。生命体を形成する前生命原子としての陰陽子と生命体の死物から生まれる原子とは まったく異なるのである。ついでに言えば、原子力とは、この死物の力学から生まれるものであり、生命体の力学からではない。
 とまれ、前生命原子としての陰陽子(陰陽氣)であるが、それは、イデアであるから、情報をもっている。陰陽情報である。(ここで、波動や振動という概念 を入れていいのだろうか。ここは、静態であるから、まだ、波動、振動はないだろう。前波動、前振動ならあるだろうが。返ってデザインの方があるのではない だろうか。空海なら、金剛界曼荼羅である。ピュタゴラスなら数、秘数、聖数である。これは検討問題にする。)
 今、イメージしたが、陰陽イデアは静態であるが静態自体において、動くのではないだろうか。エネルゲイア化以前の動きである。例えば、陰陽螺旋動がイデアにおいてあるのではないだろうか。いわば、陰陽円における形態的陰陽動である。それが、陰陽イデア情報である。
 そして、それが次元転換で、エネルゲイア化、生命エネルギー化するのではないだろうか。
 つまり、前生命原子=陰陽子は、陰陽イデア情報を常に変成していることになる。ならば、前生命原子=陰陽子とは、一つでいいのであり、元前生命原子、元陰陽子となる。簡単にすれば、元生命原子=元陰陽子=元卵(元種子)である。
 おそらく、これは、樹木に似ているように思うのである。というか、螺旋形態が折り込まれたものである。つまり、渦巻様態である。つまり、元生命渦巻子=元陰陽渦巻子である。
 今はここで留める。









二元論から四元論へ:霊⇒魂⇒身体⇒物質:一の氣(太一)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


今は一言(ではなかった)。
 身体(生命身体であり、死体ではない:生気身体、氣的身体)を考えると、それは、氣のエネルギー様態ではないかと思う。
アリステレス哲学のエネルゲイア(活動態:現実態と訳されるが、それは、混乱させる)に当たるだろう。(アリストテレス哲学の用語については以下を参照されたい。アリストテレス『魂について』 - つじこの 、アリストテレスの自然哲学 - 知の快楽 - 東京を描く )
 そして、デュナミス(潜在態)は氣自体、つまり、一(いつ)の氣と陰陽極性氣に相当するのではないだろうか。
 否、微妙である。デュナミスとはいわばポテンシャル・エネルギーであるから、一の氣だけにした方がいいように思えるが。
 思うに、一の氣と陰陽氣に分けて、後者をイデアにした方がいいようだ。そして、一の氣は前イデア(プレ・イデア)としての根源界である。太一界である。(それは、太極とは異なる。太極を私は陰陽未分化の混沌【カオス】と見ている。)
 だから、デュナミス(プレ・イデアイデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(終局態:つまり、結果であるから、物質)である。
 これに伝統的な霊学の用語を適用すると、霊がプレ・イデア(太一界)で、魂がイデアで、身体がエネルゲイアで、物質がエンテレケイアではないだろうか。ここで要注意は、霊学の伝統の三元論(霊⇒魂⇒身体)ではなく、四元論を新たに導入していることである。
 そう、身体と物質の区別があえて言えば、画期的である。
 シュタイナー霊学の医療に関しての批判もここの視点に拠るものとなるだろう。
 私は健康法において、氣だけでなく、身体も重要であるというのは、シュタイナー霊学の霊主体従の視点からは出てこないのである。そう、体(身体)と物質を同じものとシュタイナーは見ているのである。
 そうではないのである。身体とは生命のある有機体であり、物質とは、死せる身体、生命のない有機体ないし無機物である。
 ここで、氣の視点から見ると、直感する氣とは、魂であり、イデア(観念・理念)となるだろう。それは、身体化されるのであるが、それは、氣の感覚におい てはほんの一部は感ずるが、実際はブラック・ボックスである。その身体をエネルゲイアと呼ぶのであり、それは、氣のエネルギー体と呼べよう。そう、身体と は、エネルゲイアであり、氣のエネルギー体であり、それは、一部は感覚できるが、大部分はブラックボックスということになる。
 そう、例えば、音楽を聴いて、溌剌とした氣分(氣感)になるが、それは、イデアの活動状態のエネルゲイアと呼べるだろうが、それは、魂ではなく、身体様態ということになるだろう。あるいは、氣のエネルギー様態である。造語すれば、イデネルゲイア(イデネルギー)である。
 そのように考えると、イデア、魂とは、思考するときは、エネルゲイアの様態、身体の様態になるということになるだろうが、それでいいのか。これは、微妙 な問題である。私は思考はイデア、魂と思っていたが、しかしながら、思考は活動するものであるから、当然、エネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体になる のである。いや、それでいいと思う。思考観念自体はイデア、魂であるが、進行中の思考はエネルゲイア、氣のエネルギー様態、身体と見ていいと思う。ここ で、概念思考と観念・理念思考の違いが考えられる。前者は、陽自我中心であり、陰陽調和に拠らないので、一面的であり、頭脳中心である。それに対して、観 念・理念思考、つまり、イデア思考、魂思考とは、陰陽調和に関わるので、生命的であると言えるのである。そう、ここで、哲学的思考と唯物的思考の根本的差 異があると言えよう。あるいは、芸術的思考と形式的思考の違いが。【そう見ると、哲学的思考と芸術的思考は同質的であるのがわかる。ただ、前者は言葉を表 現媒体とするのに対して、後者は形態を表現媒体にするということだろう。もっとも、言語も形態とすれば、同じであるが。】
 整理すると、四種類の表記による図式ができる。即ち、


1)霊⇒魂⇒身体⇒物質(霊学の三元論を四元論に改変)


2)デュナミス(プレ・イデアイデア)⇒エネルゲイア⇒エンテレケイア(アリストテレス哲学とプラトン哲学を結合)


3)一の氣(太一氣)⇒陰陽氣⇒氣のエネルギー様態(身体)⇒物質


4)霊氣⇒魂氣⇒身体氣⇒物質


である。
 画期的と思われるのは、繰り返すが、身体と物質を区別したことである。また、イデア以前にプレ・イデア、いわば、ゼロのイデアを仮説したことである。ま た、イデア(魂、陰陽氣)を静態と見て、思考様態をエネルゲイア、身体、氣のエネルギー身体と見たことである。三つの独創があるのである。
 今はここで留める。後で補足したい。


追記:私が氣だけでなく、身体が重要という のは、上図式から、唯氣論の視点で整合的に言い直すことができる。即ち、身体とは、氣のエネルギー様態(エネルゲイア、身体氣)なのであり、静態的な氣の 動態である身体が重要というのは、生命論理的に当然である。そう、静態的である氣自体は、前生命的、形而上学的であり、身体はその生命的形而下的様態であ り、端的に、氣の生命なのである。氣自体は前生命であり、生命自体ではないのであるから、身体が重要というのはあまりに当然である。
 そう、シュタイナー霊学の誤りは、ここにあるだろう。霊的視点で、身体を物質体として見ているのであり、氣の現象体としての身体、氣のエネルギー様態としての身体と捉えていないのである。そう、エーテル体を生命として捉えているが、それは正しくない。エーテル体は前生命体であり、まだ、生命自体ではないのである。言うならば、エーテル体がエネルギー様態となって生命体としての身体になるのである。

 
追記2:理論名称であるが、無双太極PS陰陽論を改める必要がある。太極は外さないといけない。無双PS陰陽論か、太極太一PS陰陽論である。とまれ、無双も太極も外して、単に、PS陰陽論とすれば、暫定的にはいい。


追記3:エネルゲイアは現実態と一般に訳されているが、確かに、身体は現実態である。私は活動態と訳しているが、実動態という訳もいいだろう。


追記4:私のアリストテレス哲学の解釈は独自のものである。質料と形相の問題をいわば、パスしている。
 今一言言えば、形相はイデアに当たるだろう。質料であるが、アリストテレス哲学では、形相と質料の二元論になっているが、PS陰陽論では、イデア(陰陽氣)から、次元転換によって、エネルギー化して、生命身体(生命有機体)となるのである。
 だから、質料とは、次元転換によって、発生生成するものと見るのである。


参考:

アリストテレス形而上学:質料と形相 - 知の快楽 - 東京を描く


追記5:アリストテレスのエンテレケイア(完全実現態)であるが、それを私は物質にしているが、それは、いわば誤読、あるいは、曲解である。
 エンテレケイアは素直に捉えれば、成長し、頂点に達した生命体である。人間ならば、成人である。
 素直に言えば、陰陽方程式、陰凹i*陽凸i⇔±1から言えば、⇔±1がエンテレケイアである。しかし、±1を私はエンテレケイアにしている。
 そして、私はこれまで、エネルゲイアを⇔±1としたが、⇔だけをエネルゲイアと見ることができるかもしれない。
 そうすると、アリストテレスの用語と齟齬がなくなる。後で、さらに検討したい。