太陰と「水の主」ノンモ:宇宙の根源は《水》(太陰:母権・女)で、

太陰と「水の主」ノンモ:宇宙の根源は《水》(太陰:母権・女)で、《火》(陽:父権・男)は派生物


テーマ:太陰氣学:太陰イデア論:氣=イデア=生命


太陰は水的で、陽が火的で、陰陽調和は火水(かみ=神)?:月(水)と日(火)の一体としての前古代 (10/17)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2016.html


 先に以上のように、直観的に書いたが、たまたまドゴン族の神話に触れたが、それは、シリウスからやってきたノンモは「水の主」と述べている。検索すると、根源を《水》とする神話等がたくさんあるのに気づいた、今更ながらだが。
 太陰氣学において、根源の太陰を《水》とすると、確かに、うまく、母権と繋がる。
 問題は、太陰を陽=氣とは別に考えていることである。私は、玄氣としている。すると、玄氣=《水》 となる。
 つまり、玄氣=《水》が陽(日)を成形し、陰陽球になるのである。これはほぼ太陽的なものである。しかし、根源は太陰=玄氣=《水》となる。
 だから、思うに、太陰=玄氣=《水》には、『情報』があるのである。根源情報があるのである。直観では霊以前である。元霊である。太陰の魂のようなものである。太陰魂である。《水》に刻印された根源情報=魂である。というか、《水》 がもつ智である。
 なにか、水氣とか呼びたい。あるいは、水氣波、水魂である。
 とまれ、《水》から陽=火=エネルギーが生まれるのである。水母である。比喩的に言えば、海から日が産まれるのである。
 後で、さらに深く検討したい。

 
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27-a7.水の神 ドゴン族神話 - Dynamic DO!.jp
http://bewithgods.ddo.jp/hope/doc20/27-a7.html



27-a7.水の神 ドゴン族神話 ドゴン族の神話を検討すると、現代科学では想像も
できない、知的生命体の進化の歴史が浮かび上がってきます。現在の我々の知って
いる生命の進化は、この知的生命体の双子の進化の後に繰り広げられたのでしたす。
それでは、 ...


目の星は人類の母――天狼星信仰之謎 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/archive/2005/10?m=l&p=7


タイトル 日付

神島の「ゲーター祭」
2005/10/5(水) 午後 0:37

神と「五十」 (1)
2005/10/4(火) 午後 9:55

神の出行は「遊」なり (1)
2005/10/4(火) 午後 4:15

「伏犠・女媧」と「風姓」
2005/10/4(火) 午後 3:27

龍による天地創造
2005/10/4(火) 午後 3:09

「水の支配者」龍
2005/10/4(火) 午後 2:54

聖徳太子と「まつ」の木 (1)
2005/10/4(火) 午後 0:20

「日神再窟出」の意味とは
2005/10/4(火) 午前 10:29

神と「目」
2005/10/3(月) 午後 8:10

住吉三神」と「一寸法師
2005/10/3(月) 午後 6:28

「三重」と「伊勢」
2005/10/3(月) 午後 5:54

神は「魚形」になっています (1)
2005/10/3(月) 午後 1:36



Water(水)


 古代ミーレートスの哲学者たちによれば、水は四大のうちの最初のもの、すなわちギリシア語でアルケーArchê (「万物の母」)と呼ばれるものであった[1] 。水は「霊」を生んだが、霊は一般に男性原理と信じられていた。こういうわけでキリスト教徒が異教徒から取り入れた、洗礼による再生という観念は、水(女性)と霊(男性)の両方を必要としたのであった。洗礼盤は「子宮」 、とくに「マリアの子宮 」と呼ばれたが、マリアという名は古代のすべての「海の女神」の名であった[2] 。たいていの神話は、創造の衝動が最初に生じた場所を、混沌 として「無定形」な、子宮 (生命の源)である海としているが、これは太母(ティアマート 、カーリー 、マ・ヌ、テミスなど)を表していた。こういう太母のイメージは実際には、胎児が経験し、生涯にわたって元型的なイメージとして意識下に記憶され続ける自他の区別(すなわち自己と母親との区別)の欠如に由来するものであった。母親Motherを表す文字M (Ma)は波を表す表意文字であった。

 「神話学者たちが認めるところによれば、女性原理は、中世にキリスト教当局から受けたように、執拗な攻撃を受けると、静かに潜行することが多い。生命が生まれた水の中で、女性原理は男性支配の社会の潜在意識を泳ぎまわり、時折表面にぴょこんと顔を出しては、いまだに男性原理とは相容れないことを見てとる」[3] 。

 「水」と「母親」との間の照応関係は、母性原理が理論上抑圧されていた中世にあっても普遍的であって、錬金術師や他の「哲学者たち」は、霊魂 を創造したのは神ではなく、母なる大地 と母なる海であったと主張している[4] 。女神を祀る神殿は例外なくと言っていいほど、井戸、泉、湖、海と関連をもっていた[5] 。「湖上の貴婦人」とは、中世ドイツの吟遊詩人(ミンネジンガーMinnesinger)たちが崇拝した愛の女神ミンネMinne-アプロディーテー のことで、人魚として姿を現し、「水の性質」をもつと考えられていた。しばしば愛そのものの隠喩として水が用いられた。水と同じく愛は、茶碗状にくぼめた掌の中に入れるように、ゆったりと育む男のもとに留まった。しかし、固く握りしめようとする男からは、愛は流れ去って掌の中には何も残らなかった。そして水は愛と同じく、豊穣性や創造性という生命力には不可欠のものであった。水なくしては、物質界同様、精神界も不毛の砂漠、荒地Waste Land となってしまうであろう。


・・・


〔ドゴン族・バンパラ族〕 これまた、緑色の、神の精液たる水は、ドゴン族の宇宙発生論において、大地 を受胎させて《二双子の英雄 》をもうける(GRIE)。この双子は、腰から上が人間、腰から下がヘビ の形で生まれる。彼らは緑色をしている(GRIE)。


 しかし、豊餞をもたらす生命力である、水のシンボルは、ドゴン族とその隣人バンパラ族の思想において、はるかに先まで進む。というのも、水は神の精液だが、また〈光〉であり〈言葉〉だからである。この再生の御言葉の、主要な神話的アヴァターラ(権化、化身)は、純銅の螺旋である。しかしながら、水と言葉が現実態となって現れ、世界創造 をもたらすのは、もっぱら湿った言葉の形をとってである。この湿った言葉に対立するものとして、顕在的生命のサイクル外にとどまる双子の片割れがいて、こちらをドゴンとバンパラは「乾いた水」と「乾いた言葉」と呼ぶ。乾いた水と乾いた吉言葉は、思想、すなわち人間と神の両面における潜在性を表す。世界の創成の基礎である、湿気の原質を、その内部で誕生させた宇宙の卵 が、形成される以前は、すべての水が乾いていたのである。しかし天界の至高神《アンマ》は、その分身《ノンモ》(湿った水の神で、顕在的生命の指針であり、原理である)を造ったとき、彼が宇宙に与えた境界の外にある、天上界の自分の手もとに、この最初の水の半分をとっておいたので、「乾いた水」が残ったのである。同様にして、表現されない言葉、思想は「乾いた言葉」といわれる。それは潜在的価値しか持たず、子をもうけることはできない。人間の小宇宙にあって、それは本源的思想のレプリカであり、現在の人間の出現以前に、アンマから精霊《ユルグ》によって盗まれた「最初の言葉」である。D・ザーアンにとって(ZAHD)、「自意識なき未分化の言葉」であるこの最初の言葉は、無意識に対応する。それは、夢想の言葉であり、人間の自由にできない言葉である。ユルグの化身であるジャッカルまたは青いキツネは、最初の言葉を盗んだので、無意識の、不可視なものの、したがって未来の(未来は不可視の時間的構成要素にすぎない)鍵を持っている。ドゴン族の、最も重要な占いの体系が、この動物への問いかけに立脚するのは、このためなのである。


 ユルグが、普遍的に無意識のシンボルである、冥界 の火と月 にも結びつけられることを記すのは興味深い(PAUC、ZAHD、GAND)。


 あらゆる現象を2つの範疇(水と火とか、湿気と乾気といった、相対立するシンボルによって支配された2つの範疇)に分ける基本的区分の仕方は、アステカ族の葬儀にかかわる宗礼のうちに、顕著な例証を見出す。他方もろもろの事実の示すところによっても、《天地》は、本来1対なりという観念を伴った、この象徴的二元性のアナロジーは成り立つ。「溺れて死んだり、雷に撃たれて死んだ者、ハンセン病痛風や水腫にかかって死んだ者のすべて、要するに水と雨の神がこの世から連れ去ることによって、いわば区別した者のすべて」は土葬にされた。それ以外の死者は、すべて火葬にされた(SOUA、 231)。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/water.html


ギリシア神話・伝説ノート
 失われた女神たちの復権

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Barbaroi! - kyoto-Inet
古代ギリシャ文学翻訳集。衣食住、武器、船舶などに関する小論文、聖書外典
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