言葉とは何ぞ哉?:言葉と音楽:五大にみな響きあり:初めに言葉(ロ

言葉とは何ぞ哉?:言葉と音楽:五大にみな響きあり:初めに言葉(ロゴス)ありき


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私は英語や英語の歌に接することが多いが、日本語や日本文化の問題のある点が見えてきた。
 それは、意外かもしれないが、今日の日本語の音楽性の欠落である。
 話し言葉にしろ、書き言葉にしろである。
 社会の狂いは、言葉の狂いと通ずるだろう。
 とまれ、今は一言である。
 明らかに日本人は、音楽的ではない。(それともそのようになってしまったのかもしれないが。)
 日本文化は音楽より美術の方がはるかにすぐれている。もっとも、琳派をみると、絵画が実に音楽的であるが。(日本の美術の問題は、そう、文学を含めた日本文化の問題でもあるが、イデーが弱い点である。感性にイデーを溶け込ませるのが下手である。この点はいつか詳述したい。)
 ニーチェの名著『悲劇の誕生』ではディオニュソスからアポロが生まれことが述べられているが、それは実に天才的洞察である。
 これは、太陰イデア論から言えば、太陰から陽が生まれるということに言い換えられる。
 そして、ディオニュソスは音楽であり、アポロは美術であった。つまり、音楽から美術が生まれるということである。もっとも、ニーチェは悲劇(アポロとしての)の誕生の力学を説いたのだが。
 ということである。ディオニュソス=太陰が根源なのである。
 しかし、日本人は父権化して、アポロ化して、つまり、自我化して、根源のディオニュソス=太陰を喪失しているのである。
 植物で言えば、根が大地から引き抜かれている状態である。
 本題に入れば、結局、言葉もアポロ=陽であり、それは、ディオニュソス=太陰が根源に本来なくてはならないということである。
 私は直観(これが言いたかったことである)では、言葉は太陰と結びついているということである。言葉によって、太陰が形成されるのではないかと、また直観されるのである。
 いったい言葉とは何か。
 ヨハネ福音書は初めに言葉(ロゴス)ありきと述べている。ラカンは無意識は言語のような構造をもっていると述べている。空海は五大に響きありと言う。響きは一種の言葉であろう。そして、デリダエクリチュール(書記言語)を根本性を言う。
 私は言葉はアポロ=陽であると言ったが、アポロ=陽とは、ディオニュソス=太陰の変容したものである。
 そう、ディオニュソス=太陰=イデアの個体化である。一つ現象である。しかしながら、悟性(知性)と結びついた現象である。
 そう、正に、アポロ=陽の象徴である。
 秩序、コスモスだと思う。言葉は根源がカオスなら、秩序化=コスモス化である。
 そう、アートと言っていいのである。言葉の狂いは、芸術の狂いである。それは美の喪失である。
 言葉を失った日本人は今や、動物の次元に堕したのである。
 人間獣の日本「人」である。日本人獣である。
 まだ、うまく言えていない。
 思うに、言葉は単にアポロ=陽だけでなく、ディオニュソス=太陰ではないだろうか。
 初めに言葉(ロゴス)ありきの言葉である。
それは、何か。それは日常の言葉ではない。
 言霊?
 それは語弊があると思う。確かに、それは近い。
 言葉は音声と同時に文字となり、映像である。
つまり、ディオニュソス=太陰とアポロ=陽の結合と言えるように思う。
 単に、アポロ=陽ではないのである。また、ディオニュソス=太陰、そのものでもないだろう。
 「光あれ」
 つまり、アポロ=陽を形成するために必要な創造活能ではないだろうか。
 つまり、森羅万象は言葉、創造活能としての言語をもっているのではないだろうか。単に、現象ではないのである。そこには、気と同時に、創造活能言語があるのではないだろうか。
 さらに言えば、気は創造活能言語を結びついているのではないだろうか。私は生命知活能と要っているが、この知の部分に創造活能言語があるのではないだろうか。
 そうならば、気=生命創造言語的活能ではないだろうか。



男爵ディーノ_「悲劇の誕生」読解メモ - The 男爵ディーノ
dansyaku.cagami.net/dansyaku_higeki.shtml - キャッシュ
理解できているか怪しいです。 参考にする人は十分に疑って掛かって下さい。 第一章 ・
アポロ的なものとディオニュソス的なものが相互に刺激し合った結果、どちらの要素も
含んだ「アッチカ悲劇」が誕生した。 ・アポロ的なものは感情・情景(?)に形を与えるもの
、 ...


ニーチェ悲劇の誕生
semi.natura-humana.net/2008/micromacro/nietzsche.html - キャッシュ - 類似ページ
そのために書いた『悲劇の誕生』〔1872〕は学界からは無視され孤立する。 しかし、
ワーグナーの企てが1876年に実現した時には、その俗悪ぶりに嫌気がさし、たもとを
分かつ。この頃から『人間的な、あまりに人間的な』〔1878〕に始まるアフォリズムを書き
...

乱読乱文多謝 『悲劇の誕生
強さのペシミズム」事始め


 1872年、ニーチェ が二十八歳のときに発表された、彼の処女作であるこの『悲劇の誕生 』は、このブログにときどき顔をだす我が友人Yが大学の卒業論文で取りあげたこともあり、私にとっては、ニーチェ の数ある著作のなかでも、『ツァラトストラ』と並んで思い入れのある作品である。

 以前、ちらっと書いたことがあるが、私が読んだ最初のニーチェ は『ツァラトストラ』だった。しかし当時まだ「似非新プラトン主義者」的な考え方をもっていたうら若き私には、ニーチェ の思想にはほとんど共感できるものはなく、悪い印象だけを抱いて最後のページを閉じることとなってしまった。そしてそのために、しばらく私はニーチェ を読むことなく過ごした。

 しかしやがてショウペンハウアの『意志と表象としての世界』を読み、その厭世哲学にそれまでの楽観主義的な自分の考え方を全否定されるような衝撃を受けるに及び、ようやく、まあ自分なりに、ニーチェを読む準備が整い、そしてこの『悲劇の誕生 」を繙くに至った。

 結果的に、私は良い「順番」で、この二書、つまり『意志と表象』と『悲劇』を読むことができた、と思っている。というのは、この『悲劇』を書いた当時の若きニーチェは、いまだショウペンハウアの(そしてワグナーの)強い影響下にあり、実際、この『悲劇』にしても、その形而上学的根拠といっては、ほぼ完全にショウペンハウアに依拠しているのである。

 晩年に近づくにつれて、ニーチェはショウペンハウア哲学からの脱却、あるいは克服への意思を強め、ショウペンハウアどころか、形而上学そのものの価値をすら否定するに至るのではあるが、やはりその晩年期の彼の哲学のみを知ろうとするのではなく、彼がどこから出発したのかを知ったうえで、例えば『ツァラトストラ』などを読んだ方が、彼が「何と」戦っていたのかなど、いろいろとみえてくるものは多いと私は思う。
 
 よって、ニーチェを知ろうというのならば、やはりこの『悲劇』から始めるのがよいと考えるのではあるけれど、前述のように、その世界観はショウペンハウアそのままなので、準備的読書として、大著ではあるが『意思と表象』は読んでおくべきだと思う。無論、その『意思と表象』を読むためには、最低でもカントの『純粋理性批判』は読むべきだ、などといい始めると、もう最後にはプラトンから始める他はなくなってしまうので、この辺りはどこかで見切りをつけなくてはならないのだが。

 この書物は、「アポロ的なもの」と「ディオニュソス的なもの」という、ふたつの対立概念によって、ギリシア悲劇の、そして芸術というものの原動力とそのあらわれを説明しよう、という内容を持っている。

 と、これだけでは何のことやらわからないので、ざっくり説明してしまうと、「アポロ的なもの」とはつまり「表象としての世界」の壮麗な美しさのことであり、「ディオニュソス的なもの」とは、それに対して「もの自体としての意思」の、盲目的な衝動そのもののことである。・・・ますますワケがわかりませんか。しかし、『意思と表象』を読んだことのある方には、これで私が何をいおうとしているのか(私の解釈が正しいか否かは別として)おわかり頂けることと思う。

 勿論、『意思と表象』は読まず、『悲劇』の本文だけを読んだとしても、全く理解できない、ということはないだろう。この作品はニーチェには珍しく、秩序だった文章構成で論理的に(彼としては)書かれており、読んで内容を理解することは、預言の書のような『ツァラトストラ』だとか、他の格言めいたアフォリズム形式で書かれたものと比べるならばずっと容易だからだ。

 しかしここで語られるショウペンハウア=ニーチェ的な世界観は、まさしくこの作品で語られるところの「ソクラテス主知主義」的な考え方に慣れきってしまっている我々には、感覚的に捉えにくい部分がおおきい。本当に、まさしくこの本のなかで提起されるこの問題故に、私は、あのショウペンハウアの大著をまず読んでおくべきだ、と思うのである。そしてこれは、ただこの処女作一冊の理解に役立つのみならず、ニーチェという巨人に立ち向かうための、我々にとってのおおきな手助けになるだろう。

 そうした意味では、この『悲劇の誕生 』をまずできるだけしっかりと理解しておくことは、ニーチェ思想の迷宮に挑むにあたり、とても大切なことだ、ということもいえるのかもしれない。さらにいうならば、これをどう理解するかによって、様々な側面をもつニーチェが、そのひとにとってどういう意味をもつものとなるのかを、左右するともいえるのではないだろうか。

 この論文でニーチェは、徹頭徹尾その形而上学的根拠をショウペンハウアに負いながらも、ある決定的な価値転換をすることによって、彼独自の道への第一歩を踏み出している。ショウペンハウアにとっての、この「絶えざる苦脳」の連続に過ぎない、表象世界における生というものからの救済は、「盲目的な衝動としての意志」の否定、ということによって成されるものとされた。しかしニーチェは、「ディオニュソス的なもの」という形でその「意志」を積極的に受け入れることで、この苦しみ多き生を肯定的に受け入れる道を見出した。

 さらに彼の独創的なところは、「仮象」にすぎないものとしてのこの「表象の世界」の美しさ、すなわち「アポロ的なもの」をも否定せず、あくまでもこのふたつの対立概念の総合を、世界の芸術的、美的認識のために必要だ、としたことだ。それはショウペンハウアの「全否定の哲学」とは全く逆を向いた、「全肯定の哲学」であり、この二者が全く同じ形而上学的根拠から出発していること考えると、これは注目に値する。

 そしてこのことを、本書ではアッティカ悲劇の盛衰に仮託して語っている訳だ。だから、どうやら「文献学的」には、アッティカ悲劇の歴史というものを正しく捉えているとはいい難い本書であるらしいことは、あまり気にする必要はないだろう。ただ、我々が十把一絡げ的に「古代ギリシア」として俯瞰してしまいがちなものについて、その文化のうちにもやはり歴史的変容というものはあったのだ、ということを認識できればよいだろう。

 そんなことよりも、こうした世界の「美的認識」を、ソクラテス的な「主知的認識」、かんたんにいうと合理的、科学的な世界認識と対立させているニーチェの視点のほうを、我々はよく考えてみるべきだと私は思う。
http://sizuma883.blog9.fc2.com/blog-entry-102.html
乱読乱文多謝


五大にみな響きあり


空海について : 風景の素描
空海について


五大皆響き有り
十界に言語を具す
六塵悉く文字なり
法身は是れ実相なり


現代語訳「五種の存在要素(五大)には、みな響きがある。十種の世界(十界)は、言葉をもっている。六種の認識対象(六塵)は、ことごとく文字である。さとりの当体(法身)とは、実相のことである。」


空海(774-835)は真言宗の開祖で、多くの著作を残した。上の言葉は「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」の中の言葉である。

空海によれば、世界の根源あるいは根底には「大日如来」がある。大日如来とは、大いなる光、無色透明の純粋な光である。

この大いなる光が、渦を巻き、螺旋を描きながら(マンダラに描かれているように)、多種多様に生成変化したのが、世界である。

大日如来は言葉(真言)を通じてたえず説法している。それを「法身説法(ほっしんせっぽう)」という(あまり擬人化して考えないように)。

では、大日如来の説法とはどのようなものだろうか。

「五大皆響き有り」。この言葉が出てくる瞬間、体験があるとすれば、それはどのような体験だろう。五大とは、地水火風空のことで、簡単に言えば、森羅万象のことである。森羅万象にみな響きあり、と言える体験とはどのようなものだろうか。

かつて奈良のあまり高くない山に登ったことがある。山頂に立ったとき、青空の下、はるか向こうまで山並みが広がっていた。そのとき、しーんとした底知れぬ静けさを感じた。空があり、山がある。そして自分がいる。ある、という存在感をつよく感じた。「五大皆響き有り」とは、森羅万象があるということへの感動の言葉のように思える。そういう意味で壮大な言葉のように思える。

大日如来の説法とは、「ある」ことの奥深さを説いているような気がする。


(引用、参考文献)
空海コレクション2/宮坂宥勝 監修/ちくま学芸文庫
密教/松長有慶/岩波新書
http://skyinblue.exblog.jp/4673955

風景の素描


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