今日の日本の袋小路は父権主義(ヤハウェ=自我主義)に拠る:太陰(

今日の日本の袋小路は父権主義(ヤハウェ=自我主義)に拠る:太陰(肚)的母権主義が否定されている

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

一言。明らかに、今日の、日本の、いろいろな意味での、支配層は父権主義である。それは、極陽=自我=ヤハウェ主義である。それは、太陰(多神教)=他者=キリスト主義の否定である。
 そう、その意味で、日ユ同祖論は成り立つと思う。つまり、ヤハウェ主義の父権民族が太陰主義の母権民族の日本に到来して、日本国を作った。しかしながら、文化社会のベースは後者にあったのが日本という国である。
 しかるに、明治維新、敗戦後米国支配によって、ヤハウェの父権主義が基底・基層・原基の太陰の母権主義を否定抑圧するようになったのであり、今日がその末期症状と考えられる。
 二つの民族を考えなくては、そして、母権民族がベースであるということを認識しなくては、日本という国は理解できないし、滅亡を免れない。

PS理論批判:PS理論とは何であったか:数学的対称性ー陰陽極性理論としてのPS理論

テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)

後で検討したい。
 一言言うと、不連続的差異論が2004年に誕生して、2年後くらいに、PS理論(プラトニック・シナジー理論)へと進展した。
 それが、去年2012年まで続いた。その後、私は試行錯誤して、今は、太陰イデア論へと展開した。
 PS理論は、不連続的差異論を発展させる意味をもった、Kaisetsu氏(海舌 SeaTongue@Kaisetsu

http://blog.kaisetsu.org/)による数学をベースとした数学的哲学・科学仮説である。
 おそらく、6,7年、PS理論に関わった。しかし、昨年、私はそこから脱却・離脱した。
 理由は数学主導のために、哲学的考察が後追い、後付けになるという欠陥のためである。
 そう、虚数を導入したのは、実に鋭敏であったが、数学的対称性の概念に囚われてしまい、不連続的差異論の意味を積極的に展開できなかった。
 正負の虚数と陰陽極性が結びついて、一見実に整合的な理論と考えられたのである。(追記:凸i*凹i⇒+1というのがPS理論のコアの自己認識方程式である。そして、凸iを陽、凹iを陰とすれば、左辺が陰陽共振で、右辺を生命体と見ることが出来るのである。)
 しかし、さらなる発展を求めたとき、限界に達したのである。
 その後、Kaisetsu氏は、四元数(しげんすう)を用いて、PS理論を新たな段階にもたらした。それは、新PS理論と呼べよう。
 しかし、私はもはや、数学主導の理論には否定的であり、直観的思考に基づいた哲学的思考をベースにして、太陰イデア論を説いている。
 それはPS理論のもっていた数学的対称性・陰陽極性を乗り越えた太陰を中心とした哲学的理論である。
 哲学的科学理論と言いたいが、科学という用語が、物質主義を内包しているので、科学という言葉は使用できないのである。
 そう、超科学という言葉を使用するしかないだろう。故に、太陰イデア論とは、哲学的超科学理論(仮説)である。

内在性と内越(内在超越)性:ドゥルーズガタリ哲学の内在哲学と不連続的差異論/太陰イデア論

テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)

太陰は太差であり、太一ではない:太コスモスと現コスモス:太陰と陽と物質の関係
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11578373941.html


直近で以上のように述べたが、これは、考えると、哲学的にきわめて重要な意義をもっていると考えられる。
 不連続的差異論の画期的意義に関係することでもある。
 つまり、不連続的差異論は基本的にはドゥルーズ哲学の根本的批判である。後者は連続性ないし連続的同一性(正しくは、微分=連続的差異)の概念をベース にしていることを批判したのである。連続性ではなく、不連続な差異をベースにすることを説いたのが、不連続的差異論である。
 そして、今、太陰が太差であると説いて、ドゥルーズガタリの内在哲学を想起したのである。太陰イデア論は太陰の内在的超越性(内越性)を説くが、内在性そのものは説かないのである。
 確かに、内超性は内在性に入るが、超越性がないと、連続性が入ってしまうと考えられるのである。
 言い換えると、ドゥルーズガタリの内在哲学は実は、内在連続的哲学であるということであり、それとは、太陰イデア論は異質なものであるということである。
 そう、太陰イデア論は内在超越的不連続的哲学、内超不連続哲学である。
 太陰イデア論になって、ポスト・ポスト・モダンが完成し、トランス・モダンとなったと言えよう。
 トランス・モダンとはポスト・オクシデントである。