太陰イデア論(太陰プラトニズム):理論名称について:不連続という
太陰イデア論(太陰プラトニズム):理論名称について:不連続という言葉を外す
理論名称が頻繁に変化しているが、どうやら、不連続は外すことができそうである。
何故なら、太陰を原点にしたとき、そこには、対立する陽が存在しないからである。つまり、例えば、陰と陽が初めから存在していて、その関係が問題になるとき、両者の不連続性を考えるのは、妥当である。
しかし、初めは太陰、陰しかないのであるから、連続性、不連続性の問題は生じないと思う。
ただし、太陰から派生する陽であるが、それは連続であるのか、不連続であるのかは問題になろう。
言い換えると、イデアと現象の関係である。それは、連続なのか不連続なのか、となる。
これは、常識的に不連続である。何故なら、質が異なるからである。だから、太陰イデア論において、もはや、連続、不連続は問題にならないと言える。
故に、理論名称は、不連続を外して、太陰イデア論、又は、太陰プラトニズムでいいことになる。
不連続が問題になったのは、差異に対する同一性の志向性についてである。つまり、同一性が前提であるとき、連続性か不連続性かは問題になったのである。
しかるに、今や、同一性ではなく、太陰という絶対的差異・他者であるイデアが問題になっているのであるから、もはや、連続か不連続性かの問題はないのであり、必然的に不連続であるから、もう不連続の言葉は不要なのである。
追記:不連続的差異論であるが、それは、ドゥルーズの差異が連続的であるのを批判することから生まれたものである。
そういう文脈ならば、不連続性の概念は生きている。
しかし、イデアと現象との関係の場合は、そもそも連続性はありえないのでないだろうか。なぜなら、イデアが本体であり、現象は仮象であるからである。
それを考えれば、太陰をイデアと見るので、やはり、不連続の用語は不要である。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11572805238.html
先に以下のように、現時点で、メビウスの輪については否定的なことを書いたが、今朝、少し考えたら、太陰、中心点、原点における内在三次元の四元数(しげ んすう)を考えると、それらは、メビウスの輪になると思った。三つの虚数の軸は、それぞれ、入れ替えることができるのである。陰陽メビウスではないが、太 陰三次元メビウスとは言えそうである。簡単に言えば、太陰メビウスである。
そして、太陰メビウスが内在コスモスと関係すると思う。そう、神秘宇宙とはこの太陰メビウス=内在コスモスのことのように思えるのである。
そして、イデア界もここにあるように思えるのである。少なくとも、イデア、あるいは、ビデアはここに存すると思えるのである。
今は言及だけに留める。
メービウスの帯と不連続陰陽イデア論
佐野千遙博士は、メービウスの帯の中心的重要性を述べているが、不連続的陰陽イデア論はそれをどうみるだろうか。
今は一言触れるだけである。
太陰主義になる以前、陰陽メビウスを説いていた(参照を見られたい)。
太陰主義の現段階では、どうなるのか。
今の段階では、陰と陽は非対称の関係であり、メビウス的対称性のある反転は考えていない。
今はそう言うに留める。
参照:
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11572794981.html
単極磁石と太陰:不連続太陰論とスミルノフ学派佐野理論
佐野博士が提唱する単極磁石とは何か。
不連続太陰学(と仮に呼ぶ。理論名称がころころ変わるが。)における太陰が単極磁石に近いように思われるのである。
とまれ、佐野全体学はとても刺激的であり、不連続太陰学と比較したいと思う。
負の質量数十gの単極磁石=霊魂が離脱する死の瞬間、体重はその分増える!スミルノフ学派Dr佐野千遙
霊魂=負の質量の単極磁石であるために、死後魂は天空に向かって上るのであり、肉体が滅亡しても単極磁石である霊魂は生き続ける。
「正統派」現代物理学派と違い、我々の真の正統派物理学が宗教関係者とも対話が出来るのは、そして社会正義の美学・社会的愛の美学に動機付けられて死をも超えて社会変革の為の崇高なる闘魂を維持・発展させる事が出来るのは、上述した事による。
http://ameblo.jp/allahakbar231/entry-11554741989.html