超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円

超越界とガウス平面:自我と自然:超越円と自然円


テーマ:無双原理とPS哲科学


先に、無双原理を見て、ガウス平面を直交する垂直軸(超越軸)が不要であると述べたが、果たしてそうだろうか。
 問題は、自我原理(小我原理と大我原理)をどう捉えるかである。
 一般に、自然(植物、動物、鉱物、その他有機体や無機物)には、人間のような自我原理はないのだから、それらと一様に人間を扱っていいのか、これまで述べたように、問題である。
 やはり、一般の自然とは超越した原理として、自我原理を見るべきならば、やはり、ガウス平面に直交する超越軸が必要となる。
 そうならば、根源の太極が超越円にあり、その回転によって、ガウス平面の単位円が形成されるということになるだろう。
 そうすると、二重の円、超越円と自然円を考える必要があるのである。
 これは、無双原理に引かれる前の考えに戻ることになる。
 そうなると、太極、太陰・太陽の考え方はどうなるだろうか。
 超越円=太極であり、太陰が超越軸凹j、太陽が超越軸凸jとなるのではないだろうか。では、虚軸凹iと虚軸凸iは何になるのか。
 仮に、凹iを小陰、凸iを小陽としよう。光(光子)は凹iであり、空間形式であり、闇(重力子)は凸iとなり、時間形式である。前者に太陰凹jが重なり、純粋悟性となり、後者に太陽凸jが重なり、感情・欲望となるのではないだろうか。
 つまり、超越円は宇宙・神霊的次元であり、自然円は現実・日常的次元となる。
 そう、カントの超越論的形式とは、超越円が自然円に重なった様態を意味していよう。そして、カント哲学では、超越円への志向が純粋理性批判という限界を もっているのである。言い換えると、重なった様態においてのみ、カントは、超越円への超越性を示唆するのみで、超越円に飛翔できないと考えられる。
 超越円の世界とは、プラトンイデア界である。


追記:以上のように考えると、小我は自然円に、大我は超越円に存すると言えよう。
 では、小我の自然円から大我の超越円への飛翔はどのように可能になるのだろうか。
 問題は、小我=自然円に存するmedia point(調和点)を重視することによってであろう。それは、超越点と言うことも可能である。その超越点を重視することは、超越円に通じることとなると考えられる。
 思うに、心、精神、魂と呼ぶものは、小我=自然円のmedia point=調和点=超越点であると思われる。その涵養・陶冶によって、超越円=超越界=神霊界へと飛翔できると考えられる。
 近代・現代日本人は、唯物論化されて、これを喪失していると考えられる。


追記2:PS哲科学は無双原理を包摂するものになると言えよう。





トランスからイントラへ?:トランス・モダンからイントラ・モダンへ?


テーマ:trans-modern:超近代的進化


近代を超える意味でトランス・モダンという用語を使用しているが、思えば、近代・モダンの内在的超越を問題としているのであるから、イントラ・モダンが正しいと思う。 inner-transcendenceである。


追記:内在的は、immanentやintrinsic等があり、超越的は、transcendentである(超越論的がtranscendental:以上カント哲学から)。


追記2:イントランス・モダンの方がいいかもしれない。日本では、内超近代である。


参考:
「超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2 - 独今論者のカップ ...
sets.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/2-45b3.html - キャッシュ 類似ページ
sets.cocolog-nifty.com の結果をすべてブロック
2010年7月19日 – 超越的」と「超越論的」≪超越論的な真理は本当か2≫. 認識の考察の仕方について、カントは「超越論的」という言い方をする。 実在の側に「物自体」が存在し、しかしそれは、人間という観察者には決して到達しえないという。 その世界を構成し ...






小我と大我の連続性が一神教的であり、両者の不連続性が多神教的では?:ultra-modern

テーマ:無双原理とPS哲科学

小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11279267349.html


先に以上のように述べたが、再考したい。
 復習すると、凹iが太陰であり、小我であり、多である。凸iが太陽であり、大我であり、一である。
 しかしながら、凹iは純粋悟性であり、それは、同一性を意味する。凸iは宇宙的意識であり、根源であり、他者である。
 問題は、小我の同一性と大我の一性である。大我の一性とは、他者性であるから、実は、多を意味する。一即多である。
 小我と大我が連続化すると、小我のもつ同一性が大我の他者=多性を否定して、いわば、一神教的志向性をもつのではないだろうか。言い換えると、同一性中心主義、二項対立主義、父権主義である。
 両者を不連続化したとき、小我と大我の差異共振が起こり、純粋悟性と宇宙的意識の均衡性を生じるだろう。


追記:太陰は物質の光であり、太陽は太陽/超太陽の光である。light とdarknessである。
 太陽はultra-sunを意味する。
 純粋悟性は唯物的知性であり、宇宙的意識は内在-超越的意識である。両者の極性均衡は、ultra-modern、neo-orientalismを意味する。


追記2:小我と大我の連続性が凹i*凹凸i⇒凹(−1)では?
というか、凹i*凸i⇒凸(+1)+凹(−1)ではないのか。
 つまり、太陰凹iと太陽凸iの連続性は、物質的認識凸(+1)と同一性的認識凹(−1)を生むのではないだろうか。両者は双子のようなものと考えられる。連続性のもたらす双子である。


追記3:超太陽とは、太極ではないのか。後で検討したい。





小我と大我:凸iと凹i:物質的自我と宇宙的自我


テーマ:無双原理とPS哲科学


凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。


先に以上のように述べたが、どうも、自我は二種類あって、凸iの陽が大我であり、凹iの陰が小我ではないのかと考えてみた。
 そうならば、大我と小我の連続性が近代的自我であり、近代合理主義を生むのである。
 両者を分離するのが、不連続的差異論、そして、両者を共振させるのが、PS哲科学である。
 小我とは、純粋悟性的自我であり、大我とは、宇宙的自我、神的自我である。
 両者を不連続化したとき、「ポスト・モダン」が始まる。
 とまれ、思うに、大我は一(いつ)の志向をもち、小我は多の志向をもつのではないだろうか。
 しかし、両者が連続化すると、大我が小我を支配して、統一主義、二項対立、全体主義になるのではないだろうか。
 というか、大我と小我で揺れ動くであろう。

以下、専門的な独創的内容になるので、割愛する。





凹iが陰(太陰)、凸iが陽(太陽)だろう:自我とは陽だろう。


テーマ:無双原理とPS哲科学


無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/サンマーク出版

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一部を除き、ざっと読んだが、これは、無双原理のスケッチというべき著書だと思う。たいへん洞察力に満ちたものであるが、粗削りである。
 もう八十年以上も前の著書であり、その後、無双原理を発展させたものを管見で知らない。もっとも、PS哲科学は陰陽原理に基づくので、無双原理の一種の無意識の後継者になるかもしれない。
 とまれ、先の私の指摘は早とちりだった。凹iが陰で、凸iが陽であるが、無双原理では、凹iが上方であり、凸iが下方である。ここが一つのポイントである。
 私は純粋悟性は凹iであると考え、また、自我もそのように思ったが、どうやら、純粋悟性と自我は切り離すべきように思えてきた。
 自我は、凸iの陽の原理ではないかと思えてきたのである。つまり、凸i=陽の傾斜が自我原理である。それに対して、凹i=陰の傾斜は悟性原理となるだろう。
 とまれ、問題は、近代的自我とは、この対極的原理が結合していることだろう。凸i=陽が凹i=陰と結合しているのである。そう、これこそ、連続性ではないだろうか。
 そして、不連続的差異論は凸i=陽と凹i=陰を切り離したと考えられるのである。つまり、自我原理と悟性原理を切断したことになるのである。だから、「ポスト・モダン」である。
 無双原理的に言えば、陽と陰を区別したことになるのである。
 そして、PS理論は、陰と陽との差異共振極性原理を数学化したものである。
 問題は、自己認識方程式にあるかもしれないが、これは、今はおいておく。
 とまれ、近代的自我(コギト主義と呼んでおく)は、陽のもつ同一性と陰の差異(個)を連続化してしまっているのである。絶対的矛盾を一体化してしまっているのである。
 ところで、凸i=陽=自我同一性原理、凹i=陰=純粋悟性原理とすれば、超越軸は不要であり、ガウス平面と円(オイラーの公式)だけで済むことになる。
 ただし、無双原理のように、凹i=陰を上部、凸i=陽を下部とする必要があるだろう。


追記:自己認識方程式(凸i*凹i⇒凸[+1])であるが、*の積とは、連続化の意味となるのではないだろうか。つまり、近代的自我ないしは近代合理主義を意味するのではないだろうか。
 凸(+1)とは、物質的認識(近代合理主義)を意味するのではないだろうか。
 そして、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とは無自我的認識のことではないだろうか。(不連続的差異的様態を意味するのかもしれない。)
 本来の自己認識は、ガウス平面上の単位円に存するのではないだろうか。それは、オイラーの公式で表現されるだろう。
 後でさらに検討したい。





太陽は太極で、media pointではないのか


テーマ:無双原理とPS哲科学


周氏太極図


先に、太陽を陰(光)*陽(闇)⇒太陽と図式化したが、そうではなく、太極=太陽⇒陰(光)*陽(闇)⇒宇宙・自然ではないだろうかと思った。初めに、太極=太陽ありきである。
 それは、超・超越界ではないだろうか。media pointとしての太極=太陽から、超越円と超越軸z軸が生まれたのではないだろうか。そこから、また、陰陽が生まれたということではないのか。
 後で検討したい。
太極図 - Wikipedia
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太極図が文献として確認されるのは北宋の周敦頤の著した『太極図説』(11世紀)が最初である。『易経』繋辞上伝における「太極 - 両儀 ... 黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が ...
五層 - 陰陽魚 - 円図 - Unicode


太極 - Wikipedia


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道教のシンボルともなった陰陽魚の太極図 · 周敦頤『太極図説』に描かれた最初の太極図。朱子学によって重視された。 太極(たいきょく、簡体字:太极 ピンイン:tàijí、タイチー)とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念で ...
太陰大極図とは何か?
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ところが実は、この太極図の説明の仕方は、モナリザを追求した結果、出来上がったものなのです。 「モナリザの背景は、四つの場所をつなぎ合わせたものだった。」 これは06'05/20フジテレビ系列放映の『ダ・ヴィンチ=コード ミステリースペシャル』で紹介された、 ...

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無双原理の陰陽哲学について:凸iが陰で、凹iが陽なのか、どうか


テーマ:無双原理とPS哲科学


以下の著書を半分弱読んだが、思った通り、実に興味深い、魅力的である。確かに、PS哲科学に似ているが、根本の点でまったく正反対なのである。この点がいちばんの問題である。
 即ち、PS哲科学では、これまで、凸iを陽、凹iを陰としていたが、無双原理に即せば、凸iが陰、凹iは陽とならなくてはならない。言い換える と、光が陰、闇が陽とならなくてはならない。これは、最大の問題である。光を陽、闇を陰とするのは、語義からみても、直観から見ても妥当であるが、それを 逆転することが可能なのだろうか。
 凸iを悟性(知性)と取ると、無双原理の陰陽性がわからないでもない。悟性(知性)はクールであり、冷であるから、確かに、無双原理からすると、陰となる。
 それに対して、魂はホットであり、暖であるから、確かに、無双原理からは、陽となる。
 そうすると、凹iが陽で、凸iが陰となることになるが、それでいいのだろうか。
 具体的に言うと、女性が陽で、男性が陰である。それは、確かにわからないことはない。
 どうも、無双原理の方へなびきつつある。
 ここで、参考として、D. H. ロレンスの王冠哲学を考えると、獅子=「父」が闇であり、一角獣=「子」が光であり、両者の「止揚」として、王冠=「聖霊」が存する。
 闇は陽であり、凹iとなり、光は陰であり凸iとなる。
 確かに、それはロレンスの思考に合致するだろう。
 無双原理を肯定すると、PS哲科学の凸i*凹i⇒凸(+1)の方程式は陰(光)*陽(闇)⇒自然・宇宙ということになる。
 仮にこれを肯定した場合、光のもつ明朗感、歓喜感は陰で説明ができるのだろうか。
 太陽が陰でいいのだろうか。思うに、太陽は、本来、陰と陽の結合によって生まれたものではないのか。ならば、光は、太極的であろう。
 ならば、陰を光とするのが、誤りである。陰*陽⇒光とすべきように思う。そして、太極⇒陰*陽⇒光という根本図式が考えられる。
 そのようにしたとき、カント哲学の悟性原理はどのように説明できるだろうか。これまで、凸iの光の原理としてきたのである。
 それは、今は、反対となり、凸iの陰の原理とすれば、説明できることになる。
 どうも、無双原理の陰陽論の方が的確のようである。
 後で更に検討したい。
追記:ロレンスの説くdarknessとは、上述の視点からは、闇ではなく、陽となる。でも、このように説明すると明らかに混乱する。
 結局のところ、根本の問題は光とは何かということになるだろう。いわば、光は光であって、光ではない。
 人間は一般に、陰凸iを介して、光を知覚する。それは、同一性の光、物質の光である。しかし、それは光を同一性のフィルターを介して見たものに過ぎない。それを物質光と言ってもいいだろう。あるいは、陰光である。
 それに対して、本来の光は、陰陽共振結合によって生じるものと考えられるのである。つまり、陽極をもっているのであるが、人間は、陰極から見ているのである。
 陽極から見た光がdark sunというものではないだろうか。
 結局、一般に人間は本来の光、太陽を見ていないのである。同一性、物質、陰凸iの眼鏡を介して、見ているに過ぎないのである。
 そう、人工的な光・照明は、物質光(凹、−1)と見ないといけない。それは、本来の光、太陽ではない。
 ロレンスのdarknessに戻ると、それは、陽凹iであり、本来の光に通ずるものである。それは、魂(内在)から霊(超越)へと通ずるものである。
 結局、問題は言葉の問題である。所謂、光が光でないために、混乱するのである。
 そう、明快にするならば、通常の光を光と呼ぶならば、darknessは確かに、闇である。そして、光(陰)と闇(陽)の共振結合から生まれるのは、以前述べたように、超光である。
 マニ教その他宗教の光は、超光と見るべきである。それは、dark sunである。
 それは、また、プラトンの洞窟の比喩における洞窟外の太陽である。ここで、ロレンスとプラトンは一致するのである。
 日常言語を混乱させるのはよくないので、光(陰)*闇(陽)⇒超光(dark sun)という図式(PS哲科学では、凸i*凹i⇒凸(+1)という自己認識方程式)を肯定したい。
 ここで一言、無双原理の視点から、日本の文化・社会状況を述べると、明らかに、凸i(光・陰)化しているのである。凹i(闇・陽)が衰退しているのである。
 更に、『無双原理・易』を読み、検討を続けたい。

 
無双原理・易―「マクロビオティック」の原点/桜沢 如一

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超日本人への進化:眠っている母権極を覚醒開発し、神秘・超越的精神へと「止揚」すること


テーマ:新母権的社会:差異共振共同体


先に、日本民族文化は母権極と父権極の極性をもつと述べたが、今日は、父権極に傾斜しているために、日本人の精神が無秩序状態になっていると考えられる。
 そう、基底に多重多層の母権極があるために、父権極傾斜では、母権極の力に対応するために、知的精神は歪んだもの、奇形的なものになってしまうと考えられる。
 そう、日本民族文化の母権極を覚醒させる必要がある。それは、神秘・超越的精神である。近代合理主義、唯物論、物質科学・技術を信奉している現代日本人 にとって、それを受け入れることは、実に恐ろしいことであろうが、それを受容しないと日本は滅亡するしかないのである。眠っている母権極を開発する必要が あるのである。


No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11274522210.html


日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複合的バイアス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11273779168.html





No駄背犬は、国学化された日本父権主義の末裔である:新母権的個的民主主義へ


テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本


以下の一番目の記事に「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいているが、このままやらせていたら必ず国が滅びる」と述べられているが、「合理的思想体系はなく、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を振りまいている」 という点であるが、これは、正に、先には触れなかったが、日本父権主義の国学化された精神であると考えられる。私の明治維新批判もこの国学的精神に向けら れている。それは、二項対立であり、他者を否定排除するが、独特なのは、ここで述べられているように、「感情に訴え」る点である。有名な本居宣長の「敷島 の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」は正に、情緒論であり、感情主義なのである。日本父権主義は国学化して、二項対立主義であると同時に、感情主義な のである。つまり、反合理主義なのである。同時に、当然、利己主義である。
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : 危機感なき言論と知識人に警告 野田首相は典型的なファシストだ 「日刊ゲンダイ」 H.24/6/9
• 2012/06/11 : 政治・権力・陰謀 : [怒りの検証] 枝野と菅 「原発事故調」の偽証を告発する! 「週刊ポスト」 H24/6/15号





無双原理とPS哲科学:比較考察検討の必要


テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学


無双原理もPS哲科学も易の陰陽論(陰陽相補哲学)を基盤としている。PS哲科学は輪郭はほぼできているが、細部になるとまだ不明瞭である。桜沢如一(ゆきかず)氏の無双原理を読んで、視野を広げたい。
 考えてみたら、陰陽の根源の太極については、これまで、PS哲科学では、ほとんど論究していないのに気づいた。陰陽極性の二重性とその中間点のmedia pointを中心に考えてきて、太極という超越性は考えてこなかった。ここに発展の糸口の一つがあるだろう。


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桜沢如一


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桜沢 如一(さくらざわ ゆきかず、生来はにょいち。1893年 10月18日 - 1966年 4月24日 )は、思想家 ・食文化 研究家。
マクロビオティック の提唱者として有名で、海外ではジョージ・オーサワ(George Osawa)の名で知られている。
経歴 [編集 ]
和歌山県 新宮市 (当時の東牟婁郡 )の貧しい武士 の家系 に生まれる。14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、二十歳の頃、食養家・後藤勝次郎を通して[1] 石塚左玄 の「食養生」に触れ、健康を回復する。その後貿易商 として活動する傍らで、石塚の主宰していた大日本食養会 に参加。1924年 には同会会長となり、石塚の死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。1939年 、大日本食養会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退、翌1940年 、無双原理講究所 を滋賀県 大津市 に開設する。
その傍ら執筆活動を続け、石塚の唱えた「夫婦アルカリ 説」「ナトリウム ・カリウム のバランス論」を易経 の陰陽 に当てはめた無双原理 を提唱。1929年 に単身シベリア鉄道 経由でパリ に渡り、ソルボンヌ大学 に留学。次いで、同年、フランス語 にてパリ のVrin 社より『Le Principe Unique de la Science et de la Philosophie d'Extreme-Orient (東洋哲学及び科学の根本無双原理)』を上梓、東洋思想 の紹介者としてヨーロッパで知られる様になり、アンドレ・マルロー などと親交。1937年 に帰国すると『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を実業之日本社 から刊行。たちまち300版余を重ねるベストセラー となる。
戦時中は夫人で食養料理研究家の桜沢里真 の実家のある山梨県疎開。戦後は世界連邦運動 に取り組む傍ら、再びインド ・アフリカ ・欧米 など世界各地を訪ね、マクロビオティック の普及に注力する。1955年 には、アフリカ・仏領ガボン にてアルベルト・シュバイツァー 博士と会見し、西洋医学 、栄養学 の限界とその改善を進言するが受け入れられなかった。
1960年代 初頭、原子転換に係る研究者であるルイ・ケルヴラン はパリにおいて桜沢の主催する東洋哲学 講演会に出席し、強い感銘を受けた。2人の交流は、相互に影響を与えたが、特に、桜沢は、その後の活動の主力を原子転換 にシフトすることになる。 1964年 6月21日 、桜沢は、自ら考案の装置にて、Na →K の低温低圧原子核転換の成功を述べている(客観 的な真偽不明)。
後進の育成にも努め、無双原理講究所からは奥山治 、その後身である戦後の真生活協会(メゾン・イグノラムス、略称MI。現在の日本CI協会)からは、久司道夫 、大森英桜 、岡田周三 、菊池富美雄 らが育った。桜沢の元で一番長く師弟関係であったのは松岡四郎(前正食協会会長)である。
死因は心筋梗塞
脚注 [編集 ]
1. ^ 太田竜 『日本の食革命家たち』柴田書店1984年。58頁
参考図書 [編集 ]
• ルイ・ケルヴラン 著/桜沢如一訳 『自然の中の原子転換』 日本CI協会 。
桜沢如一著『無双原理・易』 日本CI協会 、1971年 2月。
関連項目 [編集 ]
常温核融合
外部リンク [編集 ]

ウィキメディア・コモンズには、桜沢如一 に関連するメディアがあります。
• 日本CI協会
• 正食協会
マクロビオティック オーサワジャパン 自然食品
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カテゴリ :
料理研究家
• 食養
• 菜食主義
京都府出身の人物
1893年
• 1966年没
• 生物学的元素転換
マクロビオティックの人物


1 桜沢如一氏のこと
www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/.../mansei_v02_01.ht... - キャッシュ 類似ページ
ここに桜沢如一氏について書いた文章を紹介します。これは「新栄養」という雑誌に昭和60年の10月、11月、12月と3カ月にわたって連載されたものです。これを書いたクレマン・S・Kという人は河内省一先生です。河内先生と日野先生はどちらも桜沢氏の指導を ...
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