日本父権主義とは何か:無意識の母権極と封建的同一性・自我主義の複
テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本
再考:日本民族における母権と父権の極性:父権的傾斜と母権的均衡
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11272909996.html
上述における日本父権主義の説明を整理する必要がある。
少し復習すると、日本民族は、ベースの母権的民族に大陸からの父権的民族が進入し、初期において後者が前者を支配するが、その後、両者の混淆・結合・融合が進み、その結果形成された(言わば、多民族融合民族)。
その融合の結果、日本民族文化は、母権極と父権極の両極をもつ極性性を帯びた。
日本父権主義は、その父権極の傾斜をもつものであるが、母権極を無意識的にもっている。
江戸時代において、日本父権主義は封建制のイデオロギーを強く帯びた。つまり、封建的父権主義となった。
まとめると、日本父権主義は無意識的母権極をもつ封建的父権主義となった。
そして、父権主義とは、自我の同一性主義を帯びているから、結局、日本父権主義は、無意識的母権極をもつ封建的父権的自我・同一性主義ということになる。
ここで、先の論点を当てはめると、無意識的母権極には、アニミズム、シャーマニズム等の非合理性があり、封建的父権性は中央集権的権威主義があり、自我・同一性主義は合理主義への志向はあるが、また、利己主義があるということになる。つまり、日本父権主義は、
1)非合理性:アニミズム、シャーマニズム、等の原始的宗教性
2)封建性:中央集権的権威主義
3)自我・同一性:合理主義と利己主義
の三点の複合体であると考えられる。
この日本父権主義に近代西洋文明(簡単に近代合理主義としておく)が導入されたときどうなるのか。
近代合理主義は、個の覚醒と近代的自我に拠る合理主義であるが、日本父権主義には、両者を欠いているので、近代合理主義は、自我・同一性における合理主義において一面・一部は受容されるが、非合理性、封建性、利己主義によって歪められ、捩じ曲げられて、奇妙キテレツな、グロテスクな、戯画的な似非近代合理主義になったと考えられる。
自我・同一性における合理主義は機械的な合理主義、同一性主義のことであり、個や差異に基づく合理主義ではないので、集合的なものであり、封建的体制によって、全体主義化すると考えられる。
近代西洋文明を導入した日本父権主義において、近代主義に値するものは、機械的合理主義=同一性主義と利己主義であり、その他は、前近代的な、無意識の原始的宗教性、封建的権威主義・ヒエラルキー体制で、それらは複合的に、いわば、狭隘閉鎖的な部族的「村」的な集団・集合主義、日本的全体主義を形成したと考えられる。
後で、さらに整理したい。
追記:大本教や日月神示では、「大洗濯」、「大峠」と黙示録的視点を提示するが、思うに、日本人は心、精神、意識の「大洗濯」が必要である。明治維新、戦後主義において、否定排除された、日本母権主義、新母権主義へと回帰すべきである。
肚・魂という基底への回帰である。それは、また、超越性の肯定である。つまり、超近代、トランス・モダンである。もっとも、日本の場合、同時に、トランス・プレ・モダンでもあるが。そう、日本民族文化は、近現代において、複雑骨折して、正に、無秩序、カオス状態なのである。
比較参照:
【フクシマ原発事故】 国会事故調に”極悪人”清水前社長が登場 〜今、真に問うべきこと〜
昨日(6/8)、フクシマ原発の事故原因を調べる国会・事故調査委の”大トリ”を務めるかたちで、”極悪人”清水正孝前社長が登場した。
清水正孝については、事故当時、東電の最高責任者の立場にありながら、事故の初動対応もロクにせず逃げ回っていたことは記憶に新しいが、以下のゲンダイ記事からわかるように、相変わらず”己の保身”と”責任逃れ”に終始したクズっぷりさ加減全開である。
この”極悪人”たる清水正孝が、無責任にも、炉心溶融を起こし制御不能となったフクシマ原発からの「全面撤退」の意思表示をした事実については、大手マスゴミ報道では「不明確」とされているが、ほぼこれに等しいことを口にしたことは想像に難くない話であろう。
しかし、先日のエントリーのエントリーでもコメントしたとおり、大手マスゴミどもは官邸の中でも特に菅直人に責任を負わせるべく、偏向報道を繰り返している始末である。
以下の日経記事をみれば、その姿勢に何ら変わりないことが読み取れることであろう。
”菅直人叩き”の根底にあるのは「”原発利権ムラ”に同調する人間を助け、ムラを売った人間をくじく」という実にわかり易い構図であるが、実際には、菅直人は勿論、枝野幸男、海江田万里、勝俣恒久、清水正孝、佐藤雄平ら全員が同罪であり、こやつらが今も主要なポストを務め、のうのうとシャバの空気を吸っているのは、まったく摩訶不思議な話である。
今回の国会事故調の報告・総括を待つなどと言わず、本来であれば、警察権力・検察らがこれら”極悪人”どもに対して家宅捜査をおこない、指揮権発動がなされて然るべき話であろう。
と、色々言ってはみたが、実際に必要なのは「この中の誰が悪いのか?」といった犯人の特定などではなく、事故の教訓を活かした原発監視体制の見直し・再構築であろう。
誤解しないで頂きたいのは、小生は何も原発の再稼動前提の話をしているのではなく、例えこのまますべての原発が目出度く廃炉の方針となったとしても、廃炉が完了するまでには相当の年月を要するということである。
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/a988dcf53b385a3fa74236f558d5d722
暗黒夜考〜崩壊しつつある日本を考える〜