「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題

イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学
直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。
 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。
 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。
 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。
 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。
 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。
 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(−1)となるのではないだろうか。
 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。
 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。


y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。

   

 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。

http://mtf.z-abc.com/?eid=415437
反比例のグラフ | 中学から数学だいすき!





「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別
テーマ:art & design
いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。
 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。
 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。
 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。
 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。
 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。
 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。)
 そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。
 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。
 今はここで留める。
 
追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。
 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。





母権的自我と父権的自我について再考
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
後で検討したい。
 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。





cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。
 とまれ、一言述べてみよう。
 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、
P=cosθ+isinθとする。
 すると、

P=1/2 +i(ルート3)/2

である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。
 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。
 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。
 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。
 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。
 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。
 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。
 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。
 これが、双極子と考えられる。
 今はここで留める。
 

プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係)
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
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モダン・アート(セザンヌピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。
 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。
 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。
 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。
 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。
 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。
 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。
 その美学は青の時代と共通するのかである。
 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。
 調和という点では共通だと思う。
 しかし、質がなにか異なるように思う。
 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。
 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。
 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。
 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。
 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。
 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。
 どうも、そう思われるのである。
 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。
 ただし、ピカソイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。
 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。
 とまれ、今はここで留める。

追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。
 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。

参照:

http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae


http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg


es posted by (C)天花一海

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html