自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我


テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)


自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。
 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。
 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。
 問題は、連続化である。


1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。


2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。
 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。)

 
1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。
 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。
 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。
 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。
 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。
 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。
 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。
 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。
 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。
 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。
 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。
 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。
 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。
 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。
 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。
 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。
 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。)
 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。
 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。
 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。
 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。
 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。
 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。
 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。
 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。
 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。
 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。
 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。
 これは、凸i☯凹i⇒凹(−1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。


追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(−1)である。
 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。
 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。


参考:人間認識図


ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208







PS理論の根本的修正へ向けて


テーマ:manichaeism: 哲学


私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。
 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。
 重大の問題の一つは、「自我」である。
 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。
 また、「自我」と同一性の問題がある。
 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。
 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。
 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。
 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。
 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。
 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。)
 この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(−1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)である。これは、イデア化であろう。
 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。
 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。
 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。
 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。
 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。
 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。)
 ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。
 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。
 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。
 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。
 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。
 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。
 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。
 今はここで留める。

 
追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(−1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。


追記2:肝心なことを書くのを忘れた。
 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。
 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。
 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。
 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。


追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。
 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。
 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(−1)である。
 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。
 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。
 このような意味でロレンスの近代西欧文化キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。
 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。
 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。
 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(−1)に到達したのである。
 





聖霊」の力学


テーマ:manichaeism: 哲学


フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。
 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。
 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。
 今は指摘で留める。

追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。
 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。
 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。
 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。
 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。
 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。
 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。
 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(−1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。