仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
テーマ:media point
生成門氏のガウス平面マップにおける思考(第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 )について、即ち、複素数精神様態とは何であるのかと考えていたら、連続性とは何かという問題になった。それについて述べたい。
PS理論の前身の不連続的差異論は、連続的差異=微分の脱却から始まった。
いったい、連続性とは何であろうか。これまで、数え切れないくらい論じてきた。
結局、今の結論(仮説)を言えば、それは、MP2(実MP)における同一性(自我)=物質形成の根本的力学である。それは、凸iが主導する、そして、凹iを支配する原理である。
この問題は当然、不連続的差異論初期の段階に戻るものである。
即ち、連続的同一性の力学である。これは、端的に、凸iが主導する力学であり、差異(絶対的差異・内的他者)である凹iを同一性で支配するのである。
つまり、連続性とは同一性力学のことである。同一性がmedia pointを支配するのであり、そのとき、被支配の差異凹iは、個的自由を求めつつも、同一性支配下にあるために、純粋差異になることができないのであ る。言い換えると、常に、同一性に付きまとわれているのである。
この差異と同一性の混淆状況を見事に捉えたのが、デリダ哲学と言えよう。差延という用語に表象されていると言えよう。
しかしながら、これは、連続性、連続的同一性力学の支配下の様態に過ぎないのである。
この事態において、不連続化が至高の意義をもつのである。それは、凸iの支配を断ち切る、切断することである。そのとき、もはや、凸iが凹iを支配することはなくなり、凹iは差異(純粋差異、絶対的他者、個)自身に回帰するのである。
ここにおいて、凹iと凸iの共生、棲み分けが生起したと言ってもいい。
凸iは+1との連携において、第一象限を探究するのである。
そして、凹iは自身の主導化によって、新たな差異共振をもたらし、第四象限へと開けたのである。
即ち、物質的世界と精神的世界の併存、共生が可能になったのである。
結局、(差異の)不連続化とは、PS理論で明らかになったように、凸iと凹iとの差異共振(media point)をもたらしたのである。それは、凸i*凹凹i⇒凹(マイナス1)である。あるいは、第四象限への参入である。
結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
とまれ、ここは微妙な問題である。
今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。
結論が出たので、ここで留める。
述語優位と主語優位
テーマ:media point
以下、生成門氏が述語優位と主語優位について興味深いことを書いているので、少し考えてみたい。
第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0)
『モナドの視点とはなんでしょうか?
「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか?
大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。
「響く」感じです。
これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。
しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。
これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。
「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。
』
http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」
直観で言おう。木霊の「おーい」が述語優位ということであるが、「おーい」は、差異共振なのである。自己と一体化している。つまり、凸iを介しつつ、凹iで「響き」を捉えているのである。
思うに、述語優位とは凹i優位と言えるかもしれない。しかし、凸iが媒介になっている。
次に、「おーい」を「山彦」にしたのが、主語優位ということであるが、これは、凸i優位と言えそうである。
ただし、第一象限の事象でのことである。凸i+1である。
述語優位ないし凹i優位とは、第四象限に帰属するのではないだろうか。
今はここで留める。
一神教(超越神)と父権主義の力学
テーマ:media point
Z軸において、凸j*凹j⇒凸iになると作業仮設する。ただし、j*j⇒-iとする。
この数式が一神教、超越神を意味するのではないだろうか。
では、凸j*凹凹j⇒凹iとなる。この凹iが多神教、母権主義ではないだろうか。
つまり、
凸j*凹j⇒凸i=the Father=Heaven
凸j*凹凹j⇒凹i=the Mother=Earth
ではないだろうか。
そして、凹(マイナス1)は、物質を形成するための、原型(イデア)、あるいは、氣、生命体=エーテル体ではないだろうか。
「原父」は凸j、「父」は凸i、「子」は凸i⇒+1ではないだろうか。(しかし、凸jが「父」、凸iを「子」とする見方もあるだろう。これについてはおいておく。)
ならば、「聖霊」はどうなるだろうか。端的に、media pointではないだろうか。凸iの支配下において、凹iが開けるとき、media pointが「開花」する。
そのとき、個において、二つの差異共振エネルギーが流入するのではないだろうか。即ち、凸j*凹凹jと凸i:凹凹iの差異共振エネルギーである。
前者は垂直的超越エネルギー(「神」)であり、後者は水平的超越エネルギー(氣)である。
二つ合わせれば、語呂合わせ的であるが、神氣となる。
ただし、前者の「神」は、「原父」と「原母」の共振であるから、超神、あるいは、新神とか呼ぶべきだろう。
ならば、超神氣、ないし、新神氣のエネルギーが流入する。そう、media pointとこのエネルギーを併せて、「聖霊」と呼ぶべきであろう。
以上は思考実験である。
追記:凸j*凹j⇒凸(+1)の方がいいのではないかという考えも浮かぶ。
思うに、Z軸とY軸は不連続かもしれない。その場合、二つの超越界が存することになる。
後でさらに検討したい。
検討問題:1)一神教(超越神)とは何か。2)資本とは超越論的同一性ではないのか
テーマ:検討問題
今はざっと述べる。
1)に関してだが、これは、ガウス平面に直交するZ軸の「存在」に拠るものである。これについては後で詳述したい。
2)であるが、今はこの問題の方が重要である。
これまで、資本を同一性として捉えてきた。しかし、優れた資本家は、感性欲望凹iよりも、抽象的知性凸iが優越しているのである。
この凸iが資本を管理し、活用するのである。
同一性は凸i+1である。それに対して、凸iは超越論的同一性と考えられよう。
ここが資本ないし資本家の存する位置である。
だから、本来、物質主義的ではないのである。それは、物質を活用する精神である。
そう、資本家は超越論的同一性精神をもつのである。
では、これとカントとヘーゲルの哲学はどう関係するだろうか。
思うに、超越論的同一性とは正に、カントの超越論的形式と一致しよう。
ヘーゲルであるが、弁証法で言うと、その精神とは、正に、カントの超越論的形式と一致すると思う。
故に、
超越論的同一性=カント超越論的形式=ヘーゲルの精神
となろう。
これが資本、資本家の精神である。
これは決定的に唯物論とは異なるのである。マルクス、エンゲルス、レーニンはまったく理解していなかったのである。
さて、この超越論的同一性精神であるが、これは、1)の一神教の問題、ないしは父権主義の問題と通じるように直観される。
つまり、Z軸の+の精神に関係しているのである。これが、凸iを支配しているように思えるのである。
とまれ、言い換えると、一神教、父権主義の誕生がなければ、資本主義は生まれなかったと考えられる。
とまれ、超越論的同一性=資本(主義)の問題点は明らかに、他者凹iの無視である。
他者凹iを認知したときに、資本主義はトランス資本主義となるだろう。
それは何だろうか。それは、自由共同体的資本主義である。
今はここで留める。
凹i の視覚と凸iの視覚:ディオニュソスとアポロ:二つの視覚とそれらの芸術・アート
テーマ:art & design
私は洋楽ポップス、とりわけ、多くの人と同様に、ビートルズに没入し、また、学生のとき、クラシック音楽に魅せられて以来、自分が音楽的人間だと思ってきた。
そして、つい数年前から、私の自己認識は大変化したのである。つまり、私は美術的視覚主導の人間であったという認識である。
以前述べたが、ある坂道の途中から下の方の景色を見て、スケッチしたいと思ったのである。そう、絵心が「芽生えた」である。
そして、最近、視覚美に忽然と目覚めたのである。
考えると、実は私は、小学生のとき絵を描くのが好きで、親に将来は、絵描きになりたいと述べたのである。貧乏人の家庭であったから、即座に否定された。 そして、それから、ビートルズがやってきた。また、思うに、それ以前に私の精神的感性の変化があった。超越的精神が消えてしまったのである。
結局、視覚美に目覚めたというは、実際は、小学生の頃の絵画志向が再生・新生・復活したと見るのが的確であろう。
私は文学がそれなりに好きであったので、それに惹かれた。
そして、その後、哲学等に惹かれた。
思うに、文学は凹i主導、闇主導の芸術である。そう、音楽もそうである。
しかし、絵画、美術は微妙なところがあり、凹iが土台にありながら、凸iが主導的なのである。
そう、ニーチェの『悲劇の誕生』の視点は実に天才的であったと言えよう。
そう、音楽はディオニュソスで、美術はアポロである。これは、前者は凹i的であり、後者は凸i的であると言えよう。
結局、芸術の極性があるということである。それは、闇と光の極性である。
しかしながら、先述したように、近代は凸i、そして、凸i+1が主導であり、凹iを喪失したと言えよう。
あるいは、両者の分裂が生起したと言えよう。
思うに、T. S. エリオットが「感性の乖離」で述べたことはこの事態と言えよう。凹iと凸iの分裂である。
そして、美術は凸i主導なので、科学に「伴われて」進展したと言えよう。
それに対して、音楽や文学は凹i主導なので、科学からは分離したと言えよう。
これは、C.P. スノウの述べた、「二つの文化」の事態を意味しよう。
結局、この乖離・分裂した事態は超克されなくてはならないのである。それは、PS理論では、media point(差異共振)を意味する。
そう、凸iの支配によって、凹iは弱化させられていて、凹iを取り戻すのは難しい。とりわけ、日本において。
端的に、闇の視覚・凹i・ディオニュソスと光の視覚・凸i*アポロの極性、media pointを復活させるべきでなのである。
そう、闇の光と光の光があるのであり、今日、光の光が独裁しているのである。
そして、美術の復活とは、実は、闇の光の復活に拠ると言えよう。ディオニュソスがなければ、アポロは浅薄・皮相なのである。
そして、音楽・文学も同様である。それらの根源である闇の光を取り戻さなければ、アポロ・科学の文明の支配に屈して、滅びるしかない。
とまれ、二つの視覚、闇の視覚と光の視覚、それらの共振的視覚を取り戻さないといけない。
参考:ルネ・マグリット『光の帝国』
Z軸の差異共振:凸j*凹j⇒凸(+1)
テーマ:media point
先に、j*j⇒-iとした。
即ち、
凸j*凹j⇒凸i
とするためである。
しかし、単純にj*j⇒-1としていいように思う。
即ち、
凸j*凹j⇒凸(+1)
となるのである。
これが、例えば、イエス・キリストの現象物質界への顕現を意味するように思えるのである。物質的身体となった神霊である。
そのとき、左辺の凸jが「父」ではないだろうか。そして、凹jが「母」である。
そして聖霊とは、凸i*凹iの虚MP(MP1)の差異共振エネルギー、即ち、氣=生命エネルギーではないだろうか。
ガウス平面が氣を含めて自然界である。そして、Z軸の世界が精神界ということになろう。
そして、ガウス平面をY軸を中心に1/4π回転したものが、いわば、精神平面となるのではないだろうか。
こここそ、霊界、天国も地獄があるのではないだろうか。
とまれ、微細には今は考察できない。