三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?

三次元的media point:差異共振は垂直的超越性に通じる?


テーマ:media point


差異共振は⇒凹(−1)に通じると言った。それは、水平的超越性である。
 しかし、ふと思ったのは、即非共振(「わたし」は「川」であり、且つ、「川」ではない現象)が起こったとき、超越的気分があると言い、それは、水平的超越性的であると述べたが、果たして、それだけでなく、垂直的超越性も入っているのではないかということである。
即ち、差異即非共振様態において、未知の超越性が進入しているということになる。
 思うに、水平的超越性と垂直的超越性をこれまで、人類は混同してきたのかもしれない。
 私がコスモスというとき、それは、超越的宇宙であるが、それは、垂直的超越性を含んでいるだろうが、氣から見ると、凹(−1)の水平的超越性になる。
 とまれ、作業仮説として、差異即非共振において、単に、水平的超越性(凹)が喚起されるだけでなく、垂直的超越性(Z軸)が喚起されるということを提起したい。
 そのように考えると、media pointは三重、三次元になると考えられる。Z軸のmedia point、Y軸(虚軸)のmedia pointである。
 正確に言えば、Z軸とY軸の形成するmedia pointとY軸とX軸の形成するmedia pointである。それだけで見れば、二重、二次元的になるが。
 三重、三次元であるということは、Z軸主体のmedia point、Y軸主体のそれ、X軸主体のそれの三つのそれが考えられるからである。
 ところで、先に、Z軸からY軸へと転換するように考えたが、実は、Z軸からX軸へとダイレクトに転換する場合があるのではないかということを思ったのである。
 超越的精神がダイレクトに物質界に参入することである。今思ったのは、イエス・キリストの場合である。あるいは、預言者の場合である。あるいは、シャーマンの場合である。あるいは、モーツァルトのような天才の場合である。
 そのように見ると、Z軸は超越軸、精神=霊軸である。霊界というのは、おそらく、Z軸に存するのである。
 都合により今はここで留める。





−1(凹)とは何か:水平の超越性と垂直の超越性:存在の超越性と精神の超越性:凸j*凹j⇒凸i?


テーマ:media point


 かつて、「わたし」は「川」(「木」、「山」)であり、且つ、「川」ではないと言い、その後、「わたし」と「川」は一如(いちにょ)であり、同時に、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」と言った。
 この差異即非共振様態は、media pointで発現するものである。このとき、凸i*凹凹i⇒凹(−1)が発出しているように思えるのである。つまり、media pointの即非共振態は同時に、凹(−1)を志向していると思えるのである。
 凹(−1)は物自体かもしれない。私が個物に感じる特異性はそれではないだろうか。つまり、超越的個物である。そして、それは、超越的存在である。ある いは、氣的存在と言えるかもしれない。氣の宇宙である。【先に、「浅い平面と深い平面」について述べたが、深い平面は凹(−1)を内在しているのではない だろうか。例えば、セザンヌのリンゴの絵である。これはおいておく。浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光 )http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11164064137.html
 問題はそれが「神」なのだろうか、ということになる。思うに、凹(−1)は水平的存在であり、垂直的と考えられる「神」とは異なるのではないだろうか。「神」だとしても、低位の「神」ではないだろうか。
 ここで上述の差異共振現象を再度考えよう。「わたし」(凸i)は「川」(凹i)である。あるいは、「わたし」と「川」は一如であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「川」は「川」である。
 この即非態にあるとき、一種の超越的精神(気分)にあるのは否定できないだろう。
 この超越的気分は果たして何か。それは、⇒凹(−1)の志向性なのだろうか。思うに、超越的存在がそこに感じられているのではないだろうか。ならば、そ れは、⇒凹(−1)への志向性である。一(いつ)の超越的存在である。(ところで、ロレンスが考えた「父」への志向は一への志向であり、この方向ではない だろうか。)
 とまれ、⇒凹(−1)への志向性を超越的一への志向性、水平的超越性の志向性と呼んでおこう。
 では、垂直的超越性とは何か。
 これは感知が難しいものである。外的存在、内的存在に囚われる限り、感知されないと考えられる。
 垂直的超越性とは超存在性である。純精神性である。そう、超越的精神性である。
 ここがシュタイナーの精神学の本拠地ではないだろうか。シュタイナーの主著の一つの難解な『神秘学概論』を読むと多様な根元霊が存して、それらが、情報 的エネルギーを注入して史的に森羅万象、宇宙を形成していく姿が描かれているのである。ファンタジーのような世界である。
 ガウス平面に直交する垂直軸Z軸を考えて、虚数を凸izと凹izとする。簡略化して、凸zと凹zにする。あるいは、凸jと凹jだろう。
 凸j*凹jを凸iとしたいのだが、凸j*凹j⇒凸(+1)となるだろう。だから、j*j=-iと作業仮説しよう。すると、
 凸j*凹j⇒凸iとなるだろう。
 ここで想像であるが、凸jが天の父であり、凹jが地の母ではないだろうか。しかし、天の父凸jは地の母凹jの投影であろう。
 今はここで留める。以上、思考実験である。




浅い平面と深い平面:実MP(MP2)の現象光と虚MP(MP1)の精神光


テーマ:art & design


いかにも平面的な作品がある。そこには深さ、厚み等がない。表層的である。(ドゥルーズ似非哲学は表層を説くが、それは、いかにもポスト・モダンであり、皮相であった。)
 結局、現象・物質光の様相のイメージであり、media point本来の深さ、高さはない。
 これは凸i主導による凹iの排除が原因と考えられる。
 結局、ハイパー・モダンである。トランス=サブ・モダンはないのである。
 現代日本人の精神的な最大の危機はここに存するだろう。凹i(陰=肚)を測深できていないのである。
 光=自我でありつつ、闇=他者を取込まないといけないのである。
 闇=他者が欠落しているために、イメージは実MPの現象光のレベルとなり、平面に留まるのである。精神の垂直性が欠落しているのである。
 今は余裕がないので、十全に述べられないが、近代の光は発生源には、本来、凹iの闇があったはずである。
 ルネサンスは凹i⇒凸iのベクトルがあったはずである。そして、デカルト主義によって、凸i+1の近代合理主義(唯物論)の世界が形成される。そう、根元の凹i=闇=肚が否定されたのである。
 デカルト主義はルネサンスの精神の光を現象=物質の光の変容してしまったのである。
 この結果が上記の浅い平面の作品であると考えられる。
 日本における凹i=闇=肚の否定は歴史的には、戦後の米国主導の近代合理主義に拠るだろう。日本人は自己文化を棄てたのである。
 しかし、近代の根底には、凹i⇒凸iのベクトルがあるのであり、凹i=闇=肚が潜在しているのである。
 それを現代日本人は認識し、精神陶冶すべきなのである。
 ここに回帰しない限り、日本人には滅亡しかないだろう。それは、自己文化に近代の光を介して回帰することである。
 今はここで留める。





母神(女神・母権)の光と父神(男神・父権)の光


テーマ:media point


神話学者のジョーゼフ・キャンベルの視点から、母権的神話の太陽(光)と父権的神話の太陽(光)が異なることが了解できた。
 これは決定的な視点である。前者はPS理論から言えば、media pointの光を意味しているのであるが、後者は凸iの光である。的確に言えば、凸i→+1の光である。
 それは現象光である。物質的光である。
 それに対して、母権的神話の太陽(光)は、差異共振の光である。虚MP(MP2)の光である。私の言葉では、超越光である。
 わかりやすく言えば、母権的神話の光は内的光(内的太陽)であり、父権的神話の光の外的光(外的太陽)である。
 結局、西洋文明において、父権的光=太陽が支配的になったである。
 しかしながら、西洋文明は母権的光=太陽を内在しているのである。それが個の原理である。この問題はおいておこう。
 父権的光=外的光が主導的になると唯物論が生まれる。精神が外化するのである。そして、それが、西欧近代文明の基本的原理である。
 問題は、否定された母権的光(太陽)である。先にそれを原始差異共振と捉えた。そして、その反動的復興がロマン主義であることを述べた。
 そう、母権的光の単純な復興は反動的である。父権的光(外的光)の支配の下において、新たな差異共振(media point)を探究しないといけないのである。
 凸iの支配原理において、他者である凹iを新生しないといけないのである。
 凸iは自我の原理である。それが、凹iと結びついて、自己原理となる必要があるのである。それが個化である。
 もっとも、凹iを見出すのは至難の業である。もっとも、私見では、凹iが今日普遍的に活動しているので、以前よりは、知覚しやすいだろう。
 結局、凹iの発見は西洋と東洋の結合を意味する。それは、新しい東洋である。
 そして、そこで生まれる光(新光)は、いわば、父権的光と母権的光の結合したものである。New lightである。絶対的高濃度の光である。
 そして、思うに、そこに「父」の原理が存すると思われる。キリスト教三位一体の「父」は凸iに過ぎなかったと思う。そして、「母」は凹i、凹である。
 この新しい「父」は聖霊だろう。
 後でもう少し述べたい。
 




神話学者ジョセフ・キャンベル:シュメール・ケルト・アジア・環太平洋母権大文明圏


テーマ:mythology


私が神話学だけでなく、知的にもっとも影響を受けた学者の一人はジョセフ(発音はジョゥゼフが正しいが)・キャンベル(私に前父権文明として大女神・母 神・母権「文明」があることを知らしめ、目を開かせてくれた、知的大恩人である)であるが、美術史家のケネス・クラークと同様に、直観でケルト系と思った が、やはり、そうだった。
 キャンベルCampbellという姓がスコットランド系である。
 そう、ケネス・クラークは両親がスコットランド人である。
 アングロ・サクソンとはまったく異なり、ケルト民族の血=知は、私見では、今日的には現代日本人のそれよりも、高濃度にアジア的である。
 PS理論との関係から言うと、ジョセフ・キャンベルは、永遠の極性eternal polarityという概念を神話から取り出している。これは、正に、陰陽、凸i*凹i、差異共振=media pointである。

The Power Of Myth - The Heros Adventure (Part 1)


参考:
ジョー ゼフ・キャンベル(Joseph Campbell、1904年3月26日 - 1987年10月30日)とは、アメリカの神話学者、文学者、講師である。 比較神話学や比較宗教学でよく知られる。彼の作品は広大で、人間の経験に基づく多面的なものである。彼の人生観は、しばしば「至上の幸福に従え」という一 文に要約される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB

Joseph John Campbell (March 26, 1904 – October 30, 1987) was an American mythologist, writer and lecturer, best known for his work in comparative mythology and comparative religion. His work is vast, covering many aspects of the human experience. His philosophy is often summarized by his phrase: "Follow your bliss."[1]
http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Campbell


参照:
Campbell Family Crest and History
http://www.houseofnames.com/campbell-family-crest


参考1:
スコットランドの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
移動: 案内, 検索


ス コットランドの歴史(英語表記:The History of Scotland、スコットランドゲール語表記:Rìghrean na h-Alba)は、およそ10,000年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まる。スコットランドはヨーロッパ最古の 歴史をもつ王国とされるが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきた。しかし、近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求 める声も少なくない。

石器時代青銅器時代および鉄器時代に存在したスコットランドの文化は、多くの遺跡や出土品を残したが、文字史料は 皆無である。スコットランドの歴史時代(文字史料の存在する時代)はおおよそローマ帝国ブリテン島侵攻の時期からである。ローマはイングランド・ウェー ルズにあたる地域を属州として支配したが、カレドニアとよばれた北方地域にまでは及ばなかった。カレドニアにはピクト人が勢力を張っていた。以前は、ス コットランドは高度な文明の存在しない周縁地域であり、地中海発祥の文化がゆっくりと浸透していったと考えられていた。しかし、相次ぐ考古学的発見から、 独自の高度な文化をもっていたことが明らかになった。特に北欧など外洋との関係はスコットランド史に大きな影響を与えた。

スコットランド の歴史はまた、比較的強大な南の隣国すなわちイングランドとの争いの歴史でもあった。イングランドとの間でたびたび戦争がおこり、このことがフランスなど ヨーロッパ列強との同盟や交易をさかんにした。合同法によるイングランドとの合同、啓蒙思想の普及や産業革命をへて、スコットランドはヨーロッパのなかで も有数の商業地域となった。第二次世界大戦スコットランドの経済的凋落は著しかったが、北海油田からの収入などがあって近年ふたたび盛り返してきてお り、ブレア政権の地方分権政策のもと1998年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2





物質的半円と氣的半円:精神的世界としての虚軸世界とZ軸世界


テーマ:media point


今は単に思いつきだけであるが、人間認識図の右半円は物質的世界であり、左半円は氣的世界ではないだろうか。
 一応、これを作業仮説として少し考えたい。
 私はこれまで、氣は虚MP(MP1)に存すると考えてきた。虚MP(MP1)
は、同時に、マイナス1(凹)と通ずる領域である。
 そして、自己とは、氣の変化したものと捉えた。即ち、

(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)

である。
 しかし、氣は凸i*凹i⇒で表現される。そして、これは、

凸i*凹凹i⇒凹(−1)

と変化する。
 以上から、私はこれまで、氣=精神と捉えてきた。
 しかしながら、精神は氣以外である。
 シュタイナー精神学は、氣=エーテル体(エーテル身体)とし、精神的感性をアストラル体、自己知性を自我としている。
 私は氣の変容で自己を説明しようしたのであるが、果たして、それは可能であったのか。やはり、氣は氣であり、純然たる精神の世界ではないように思えるのである。
 そこで、上述した作業仮説を述べることになるのである。即ち、PS理論的オイラーの公式ガウス平面において、右半円が物質的身体(物質的世界)であり、左半円が氣的身体(氣的世界)であるということである。
 そうならば、生物的身体において、神経は+1の線分、経絡は−1の線分になるのではないだろうか。
 そうすると、ヨガのチャクラはどうなるのだろうか。チャクラは氣にも関わるが、基本は精神(霊)性である。
 そうすると、それはどこに位置するのか問題である。これまで、私は、虚MP(MP1)、つまり、虚軸の差異共振において考えてきた。
 しかしながら、これでは、氣と区別がつかないのである。
 やはり、ガウス平面に直交するZ軸=超越軸=精神軸(霊軸)を設置した方が適切だと思われるのである。
 そうならば、Z軸は自己軸でもある。また、それは、個軸とも言えるだろうか。当然言えるはずである。だから、Z軸=超越軸=精神(霊)軸=自己軸=個軸(=他者軸)となる。
 私はシュタイナー精神学とPS理論を合わせる為、凸iの極限にアーリマン、凹iの極限にルシファーを考えたが、それは、Z軸=精神軸にあると見るべきで はないだろうか。その方が、自己精神を規定しやすいだろう。Z軸のアーリマンという超越的存在のために、凸iの極限化が生起し、原自我(純自我)が存し、 Z軸のルシファーという超越的存在のために、凹iの極限化が生起して、原他者(純他者)が生起したと見ることはできないことではないだろう。
 そう見ると、Z軸的世界が真の精神的世界・次元となるだろう。そして、それがシュタイナーの説く霊的世界ということになるだろう。
 思うに、右半円が物質世界ならば、左半面は生命的世界ととなるあろう。植物的世界である。
 そして、シュタイナーに従えば、+Zが自己体であり、−Zが動物体となるのかもしれない。前者が超光で後者は超闇なのだろうか。
 そう、シュタイナーが説いたゾロアスター=キリストとは、この+Zのことかもしれない。
 今はここで留める。


参照:人間認識図
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208