原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振

原始(初期)差異共振とトランス・モダン的差異共振


テーマ:manichaeism: 哲学


先に、近代教育(正しく言えば、近代合理主義=唯物科学教育)を受ける以前には、連続性(連続的自己=自我)と原始差異共振が併存していると述べたが、後者はまだ明確にしていないので、検討したいが、今は予見のみである。
 原始差異共振とは未だに、凹iの主導性が残っている精神における共振様態(media point:以下、差異共振とmedia pointをほぼ同一視している)であると考えられる。
 逆に言えば、近代主義は明らかに、凸i+(プラス1)であり、凹iの主導性を否定するのである。つまり、近代主義は凸iに主導性があるのである。
 だから、明らかに、近代主義とは精神的価値逆転を意味するのである。近代的精神進化と言えよう。
 少しまとめると、近代以前においては、凹iの主導性があり、それによって原始差異共振(primitive media point:以下、pmp)が生起し、それが一般自然的な連続性(連続的自己)と併存した精神様態であったのであるが、近代的精神進化によって、凹iの主 導性が失われて、凸iが主導的になり、凸i+(プラス1)の近代的自我(近代合理主義的精神)が形成されたということである。
 近代進化によって原始差異共振pmpは失われたと言ったが、それは、否定され、排除され、潜在的様態になったと考えられる。
 そして、凸i+1の近代合理主義の邁進が起こったのであるが、文化史的には、それに対する反動の神秘的ロマン主義が起こったのである。これは、反動というのが的確である。何故なら、それは、原始差異共振pmpの後れた様態の再生であるからである。
 結局、凸i+1、ないし凸iの主導性において、新しい差異共振が起こらなければいけないのである。
 トランス・モダンとは、正にこのことである。凸i+1の支配において、新たに凹iを開拓することを意味する。
 この新しい凹iの開拓において、超越的理念(超越的精神)が形成されることになるのである。それが、復活したプラトン主義(超越論哲学)である(カントやフッサールがこの系譜である)。
 つまり、トランス・モダンとは、近代合理主義の支配における超越的理念、超越論哲学の形成を意味するのである。しかし、それは、新しい差異共振、超越論的差異共振、ないし、transcendental media point(以下、TMP)をもつのである。
 だから、この新たな差異共振、TMPは、原始差異共振とはまったく異なると言えよう。
 つまり、前者は知的な差異共振であり、原始差異共振の感情主導性とはまったく異なるということである。丁寧に言うと、知的差異共振は感情を包摂した超越 論的差異共振ということである。換言すると、凹iの主導性と凸iの主導性が結合した様態、即ち、絶対的即非共振であるということである。原始差異共振のと きは、凹iのみが主導的であったのである。
 さらに言い換えると、トランス・モダン差異共振とは、凸iと凹iとの完璧な調和的な、結晶的な共振を意味するということである。黄金の光がここにはあるだろう。そう、新しい太陽である。
 今はここで留める。






ハイパーな凸iから凸i(純光)へと移行したD. H. ロレンス文学・哲学:母権的父権主義


テーマ:media point


先に以下のように、ロレンスの中期までを解明したが、肝心の後期(晩年期)について述べていないので問題であるので、ここで簡単に触れたい。
• D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理
先にロレンス中期のリーダーシップ小説期において、父権主義に傾斜したと述べたが、その後、ロレンスの思考は急展開して、母権主義へと傾斜するのである。それが、『死んだ男(逃げた雄鳥)』に表出されているのである。
 つまり、凸iの+1への傾斜を乗り越えて、凸iの含む、凹iへとロレンスは帰還したと考えられる。 つまり、純光の凸iへとロレンスは帰還・回帰したのである。
 これは、『黙示録論』の最後の言葉Start with the Sunに集約されていると言わざるをえない。
 凸iの超出(これは、全体主義に通じよう)を乗り越えて、ロレンスは、凸iの意味する凹iへと回帰したのである。
 まぁ、正に、驚くべき思考の成就である。ゲーテ/シュタイナーは、凸iの奢りを知らないのである。
 そう、光の奢りである。しかし、同時に闇の奢りである。この揺らぎは、今日的である。ゲーテ/シュタイナー路線は、優等生的で民衆的ではないのである。
 ロレンスの発想はゲーテのものに近いが、何故ロレンスがゲーテを嫌っていたのか、今や理解できる。
 即ち、ゲーテはいわば健全的過ぎたのである。民衆のもつ、「揺らぎ」が欠落しているのである。
 ロレンスのように、凸iにおいて揺らぐ方が本来的であると言えよう。
 揺らぎのないゲーテ/シュタイナーは実は胡散臭いのではないだろうか。






D. H. ロレンスの「王冠」哲学の父権的傾斜力学:凸iの父権的自我の支配原理


テーマ:manichaeism: 哲学


D. H. ロレンス文学・哲学は、前期において、三位一体論を創造的に活用した「王冠」哲学を構築した。それは、先に述べたように、ライオン(父)VSユニコーン(子)の極性対立とそれを超克する王冠(聖霊)の力学をもつ。
 しかし、中期(リーダーシップ小説期)において、ロレンスは強く父権主義に傾斜するのである。哲学的には、「王冠」哲学とは、陰陽的な原理であり、それ の特異点において、両者の相克が超克されて「聖霊」状態になるというものであり、あくまで、バランスを志向していたのであるが、中期において、バランス的 原理が崩壊して、父権主義、つまり、ライオン(父)へと傾斜して、ユニコーン(子)は否定されるようになるのである。
 私はこの原因を明確にはこれまで把握できなかった。しかしながら、先の生成門氏の鋭敏な洞察によって、道が開けたのである。(参照:感覚の至高体験凸iと凹iの関係:極限の凸iは凹iと共振する:ロレンスの光と闇の王冠哲学について
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11150299525.html
 つまり、ロレンスのライオン=父=感覚=闇とは、実は凸iの純光がベースにあるものと考えられるのである。そうすると、それは、当然、自我的になり、父権的なのである。
 故に、王冠哲学とは、精神性(ロレンスの闇)と物質性(ロレンスの光)の相克を意味することになるのであるが、物質主義、唯物論を憎んでいたロレンスで あるから、第一次世界大戦の大惨禍等を衝撃的に体験して、その力学が強く精神性に傾斜したということが十分納得のできることなのである。
 思うに、ロレンスの問題点は、一角獣=子=精神=光を中期において、物質主義に結びつけてしまった点にあると思う。
 思うに、本来、それは凹iの他者であるべきなのである。しかしながら、凸iによる同一性化を受けた凹i(物質)をロレンスはそこに見ていると考えられる。
 つまり、おそらく、初期哲学、王冠哲学においては、ユニコーン=子=精神=光はまだ、物質主義とは強固に結びついてはいなかったと思われる。単に精神的原理だった思われる。
 しかしながら、凸iの支配(自我支配)をもつロレンスであるから、当然、ユニコーン=子=精神=光の原理が物質主義、物質科学、機械文明に結びつくのは必然性があったと言えよう。
 そう、結局、王冠哲学の問題、ロレンス哲学の問題は、凸iの支配にあると言えよう。それは純光であり、また、純自我である。その自我は当然父権的であるからこそ、中期において、ロレンスは父権主義に傾斜したことの力学がここで解明されたことになるのである。 







色彩とは何か:純色彩と濁色彩:虚数(精神)的色彩を解放せよ!


テーマ:art & design


今は簡単に述べる。
 先に色彩を解放せよと提唱したが、その色彩は単なる色ではない。私のファッション・センス(あればの話だが)から言うと、一般に現代日本人の色彩感覚は濁っているのである。
 私の言う色彩はいわば純色彩である。清澄な色彩である。つまり、純光と純闇の共振による「純色」的色彩である。
 言い換えると、精神的色彩である。あるいは、魂的色彩である。ルドルフ・シュタイナーが多くの色彩論を述べているが、私の直観は少し異なる。
 おそらく、イタリア人は私のいう色彩、純色彩をほぼ理解するだろう。しかし、やはり、少し違う。
 基本的には自然にある色彩である。それは澄明で美しいのである。しかし、今日の日本人の多くの色彩感覚は濁ったものである。
 PS理論から言えば、凸iの純光と凹iの純闇の共振した「光」の色彩、その「光」のスペクトラムである。
 つまり、陰凹iと共振した陽凸iの光の色彩なのである。この色彩感はルキノ・ヴィスコンティが映画で表出していると思う。彼の色彩感の深さ、高濃度は、驚異的である。
 思うに、ここでも、虚数(精神)濃度が使用できる、すべきであろう。あるいは、生成門氏のオイラーの公式ガウス平面的精神マップが使用できよう。
 つまり、純粋虚数濃度、実数絶対ゼロ度のガウス平面である。
 しかし、マイナスの実数は純度が増すのではないだろうか。これは検討課題である。
 結局、虚数(精神)的色彩を解放せよというのが私の本意・真意である。

参考:

ルキノ・ヴィスコンティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』