ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的

ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ


テーマ:貨幣・通貨論


ポスト資本主義:物質的資本主義から霊的資本主義へ:量(実数)的貨幣から質(虚数)的貨幣へ:差異共振経済体へ向けて

PS理論の成果から、近代合理主義=近代科学=唯物論は克服された。そこには、超越的精神振動の哲学・科学が生まれた。それは、言い換えると、差異共振哲学・科学であり、他者と共振する自己哲学・科学がある。
 この視点から見ると、資本主義は同一性=物質=自我主義に囚われた偏頗な経済であることがわかる。だから、同一性=物質=自我中心主義資本経済と言える。
 しかしながら、実は、差異=精神=他者としての個・自己が本質・本体であり、同一性=物質=自我はそれらの結果に過ぎない。つまり、霊主体従が本来であるのに、体主霊従になっているという本末転倒の状態になっているのである。そう、倒錯状態である。
 そこで、本来の状態にすると、近代資本主義は当然崩壊するのであるし、今や世界的崩壊の危機にあると言えよう。
 結局、精神主導の資本経済が生まれなくてならないのである。とりあえず、これを精神資本主義ないし差異資本主義と呼ぼう。
 問題は貨幣である。今日の物質貨幣ではなく、精神貨幣にする必要がある。あるいは、差異貨幣、差異共振貨幣である。
 これは他者との差異共振性を評価するものである。そして、これは経済主導者の創意工夫、アイデア、独創にも拠るものである。い
 だから、創造的差異共振資本経済である。ここでは、経済体は、個の物質的、且つ、精神的保存を維持する必要がある。だから、弱肉強食ではありえない。言い換えると、貨幣は自我のものではなく、個・自己=他者のものである。そのために、貨幣は差異共振体としての社会創造の資本にもならなくてならない。
 つまり、貨幣はもはや、量的なものではなく、質的なものとなるのである。利益ではなく、差異共振価値としての貨幣である。そう、差異共振メディアとしての貨幣である。
 そう、実数としての、凸(プラス1)としての貨幣で
はなく、虚数としての、凸i*凹iないし凸i*凹i⇒としての貨幣である。だから、「利益」は、虚数共振価値であり、量的なものではないのである。
 たとえば、りんごを一個の価値を100円とすると、価格は10凸i円であり、買い手は手持ちの10凹i円で購入することができる。即ち、


10凸i円*10凹i円⇒100円


となる。
 しかしながら、売り手が手にするのは、10凹i円であり、そのままでは、潜在価値に過ぎず、価値を生むには、差異共振化する必要がある。
 しかし、重要な点は売買の対象に凹i貨幣を禁止することである。貨幣は売買の対象にするのを禁ずるのである。
 また、融資する際であるが、差異貨幣銀行から融資するが、原則は無利子か、マイナス利子である。しかし、決して、利子をとらないということではない。手数料等が必要である。
 以上のような経済体であるが、それは差異共振経済体であり、個的自由共振経済体である。政治・行政の役割はあくまで経済体を補佐する役目であり、主導的になってはならない。これも禁止事項である。
 都合で今はここで留める。