PS理論で世界の構造は解明できた

PS理論で世界の構造は解明できた


テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論


PS理論によって、世界の構造は解明できたと考えられる。
 media pointと精神的フィルター(連続的同一性形成構造)の二つが世界の根本構造である。そして、二つが不連続であるというのが核心である。
 media pointが生成・創造の種子であるが、根源に凹(-1)がある。そして、それが、展開して、物質現象を発現するのである。
 このmedia pointの不連続性こそ、現象形成の核心であり、これまでの理論はそれを解明することができなかったのである。ドゥルーズの「哲学」でわかるように、通常、連続的に理解してきたのである。
 問題は現象生成(消滅)の意味である。とりわけ、人間現象の意味である。そのレゾン・デートルは何か。
 直観では、media pointは永遠である。それは、超越的存在の凹を背後にもっている。個即超越性である。
 いわゆる、霊spiritとは、media pointないしは超越的media point である。
 これは永遠不滅である。プラトンの不死の魂である。ウパニシャッド哲学のアートマンに相当しよう。そうすると、輪廻転生が生起することになる。ただし、それは、個のそれであり、自我のそれではない。
 問題はmedia pointと凹の関係なのである。凹⇒凸i*凹iはわかるが、果たしてそれだけなのか。
 直観で言うと、凹とは超越的個のことではないのか。つまり、一種の超越的差異ではないのか。
 しかし、凸i*凹iが超越的差異ではないのかという疑問もある。
 凸i*凹iは虚数的差異であり、超越的差異ではないのではないだろうか。
 とまれ、凹は神即個ではないだろうか。「汝はそれなり」は正に、凹ではないのか。


参照:
「意識と本質。」  book
研究会で読んでいる論文の下調べもあって、いままた久しぶりに井筒俊彦 の著作をひもといている。
で、昨日は書店でワイド版岩波文庫の『意識と本質』 を買ってしまった。
たぶん、部屋の中を探せば、1983年の岩波書店版も1991年の岩波文庫版もあるはずだ。
だが、もしかしたら、いつか研究会でみんなで読めたらなあ、そのときには文字が大きくて読みやすい方がいいよなあ(単行本版はすでに入手困難になっている、ぼくの部屋においても入手困難である)、なんて妄想がふと脳裡をよぎったのであろう、最近小さな文字を読むのが至難の技になってきたぼく自身のためにも、こうしてワイド版を購入したというわけ。

この著作は表題の大論文以外にも三つの論文が掲載されている。
以下のとおりである。

意識と本質―東洋哲学の共時的構造化のために
本質直観―イスラーム哲学断章
禅における言語的意味の問題
対話と非対話―禅問答についての一考察

もちろん全体の3/4を占める「意識と本質」がもっとも重要な論文だ。
これは雑誌「思想」に、1980年から1982年にかけて8回に渡って同名のタイトルで連載されたものである。
当時ぼくは大学生で、とにかく言語というものに強い憧憬と劣等感をもっていた。

言語が世界を、身体を統括する。
そう信じていた(今でも少し信じている。言語が世界を平和にすることは難しいけど)。

そこに三十以上の言語を自在に駆使し、この世のあらゆる宗教や思想を自家薬籠中のものとしている、真の博覧強記の知識人である井筒俊彦 が連載を開始した。
わからないながらに、次号(不定期で掲載されていた)が楽しみでならなかった。
当時は植物生化学の実験に明け暮れていた頃で、それと「思想」誌とのギャップの大きさは、かえって井筒思想の輪郭を明確なものにしてくれていた。
実験室で扱われている細胞(ぼくはトウモロコシやホウレンソウの葉肉細胞というものを研究していた)にも神秘があった。
そして同時に井筒の論文そのものがぼくにとっては神秘だった。

いま慌てて何度目かの読み直しを始めている。
そして、このワイド版と同時に購入した『イスラーム思想史』(中公文庫、2005)も合わせて広げている。
この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という論文(平成元年四月、日本学士院例会における報告文、「思想」1989年6月号に掲載)を新たに加えて発行されたのである。
まだ途中だが、解説の牧野信也によれば「著者が生前にイスラーム神秘主義の探求によって到達した最高の境地が開示されている」とのこと。
タイトルについてだけ、井筒の言葉を引用する。

Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものとされ、特にヴェーダンタ哲学の伝統では「大文章(マハーヴァーキャ)」(=根本命題)と称され、古来インド系思想の特徴ある基礎観念として絶大な働きをなしてきたものである。「汝はそれなり」。「汝(トヴァム)」とは個我、すなわち個的人間の主体性の中心軸、いわゆるアートマンのことであり、「それ(タット)」とは全存在世界の根源的リアリティ、万有の形而上学的最高原理、いわゆるブラフマンのこと。要するに、「汝はそれなり」とは、アートマンブラフマンの一致、すなわち、個的人間の主体性は、その存在の極処において、全宇宙の究極的根底である絶対者、ブラフマンと完全に一致するということを意味する。(421-422頁)


イスラーム思想についての記述のはずなのに、なぜインド思想なのかと云えば、スーフィズムにインド思想が濃厚に流入されてきた時代がアッバス期にあって、そのときの立役者であったバーヤジード・バスターミーについての論考だからだ。

いまの引用を一瞥するだけで、ただちに西田幾多郎 の「私と汝」などを想起するのはそう困難なことではない。

井筒も上記引用のすぐ近くでこのように記述している。

一例をあげるなら、西田幾多郎の語る「二つの我」など。「自分の心の中に現実の我と高次の我との二つの我があって、その二つの我が一致すること」について西田は語り、そのことの主体的覚知を、重大な宗教的出来事として「回心(コンヴァーシオン)」と呼ぶ。二つの我があるという主体的状態は、実は、自我があるべき姿を失って分裂している状態だと彼は言う。(以下略)


そのあとは、西田がウィリアム・ジェームスの思想から自論を展開してゆくプロセスが述べられているが、ぼくたちはここから木村敏現象学精神病理学などを思い出すこともできるだろう。

このように書いてくると、ぼく自身が直接間接に井筒俊彦の著作から影響を受けていることがよくわかる。
そのことは、今回は『意識と本質』の「後記」において強く感じられた。
井筒は「自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった。(…)それは(…)自分自身の内面に私の東洋(原文は傍点)を発見することでもあった」と述べている。
もちろん、それが単なるノスタルジックな東洋趣味でもなければ、「齢七十」近くになってからの弱気な東洋回帰でもないことは云うまでもない。

そうではなくて、東洋思想から開始して東洋思想へと終結するような壮大な<井筒哲学>の始まりを、彼は宣言していたのだ。
その方法として選ばれたのは、副題にも添えられていた「共時的構造化」というものである。
引用ばかりで恐縮だが、要約するよりもはるかに的確なのでご勘弁を。

この操作は(…)、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理論的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的(パラディグマティック)に組み換えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。


これを簡単に「構造主義」とか「脱構築」なんて字面で捉えてはいけない。
思想の空間化は、ときとして平坦化の弊害をもたらす危険性がある。
どの思想も等しい比重を持たされて配置されてしまうからである。
だが、地図にも文字通り「地(海)」と「図(陸)」があるように、思想(哲学的諸伝統)もまたそうした色分けが可能となる。
云ってみれば、そのときのセンスこそが、その哲学者のクオリティを決めるのである。

ふつう、人はこの思想地図を作ろうと思う段階で、挫折を余儀なくされる。
地図のピースたる「東洋の主要な哲学的諸伝統」を蒐集することなど不可能だからだ。

井筒俊彦という巨大な知性がいて、われら日本人は幸甚の極みであると感謝しなければならない。
そして、彼が描いた東洋思想の地図はそれほど解釈もされていなければ、その地図を使って、さらなる思想の大海原へと旅たった者も少ないのである。

井筒俊彦という「世界言語」への憧憬と劣等感とが、再び甦ってきた。
http://green.ap.teacup.com/april/8.html
芸術生理学研究所(仮)


Sun, June 12, 2011


復習:黄金比フラクタル:「わたし」ないし個の問題


テーマ:media point


黄金比で例えば、正五角形は説明できる。だから、花弁の数はこれで説明できる。そして、つるまき植物の葉や花を秩序も同様である。これらはベクトル・モードである。
 では、フラクタルはどうなるのか。これもベクトル・モードと一如である。例えば、正五角形に正五角形のフラクタルができる。
 敷延すれば、物質的現象はこれですべて説明できる。しかしながら、質的ないし個的なものはこれでは説明できないのではないだろうか。「わたし」はそこからは洩れてしまうだろう。
 もっとも、media pointを基点にすると、森羅万象、個的にはなるが、今はそこまで論じないで、質と量の視点から考える。
 もっとも、個についても既述済みだ。それは、凸iの極大化の固定化と凹iの極大化の固定化の「差異」に生じるものである。人間以外では、この固定化はないと考える。
 以上はまったく再確認である。新しいことはなにもない。