精神と自然Ⅲ:陰陽と自己:シュタイナー精神科学批判の試み

精神と自然Ⅲ:陰陽と自己:シュタイナー精神科学批判の試み


テーマ:ゾロアスター教マニ教:「光」VS「闇」


先に、『精神と自然?:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化』(http://ameblo.jp/renshi/theme-10014593365.html )において、精神領域の自己と自然とを統一する、不十分な試みをした。
 結局、陰陽論とシュタイナーの四元的人間論が噛み合わないのである。
 そこで、思いついたのは、陰陽論に徹する考えであり、凸iとは、陰陽の太陽(絶対的陽)であり、凹iとは陰陽の太陰(絶対的陰)であるという視点である。
 ここで、宗教的視点を入れれば、太陽とはヤハウェ(「父」)であり、太陰とはイエス・キリスト(「子」)である。そして、両者の均衡点が正に、media pointであり、これは、「聖霊」である。
 そして、太陽=ヤハウェ=悪魔アーリマン、太陰=キリスト=ルシファーとすると、両者のバランスとは、media point=聖霊となるのである。
 しかしながら、均衡ポイントをシュタイナーは、キリスト(=アフラマズダー)としているのである。
 PS理論的陰陽論(D. H. ロレンス的王冠=聖霊論)からみると、キリストは、太陰=凹iであり、均衡ポイントにはならないのである。
 これをどうみるのか、である。思うに、シュタイナーが理論的に牽強付会を行っているのではないだろうか。
 私見では、どうも、シュタイナーは、欧州文明の存続を守りがたいために、キリストを固持したように思えるのである。確かに、キリスト教の崩壊を予見しているが、キリストは中心として残しているのである。
 しかし、シュタイナー自身の考えでは、アーリマンとルシファーの均衡点がキリストなのである。しかしながら、上述したように、均衡点は、聖霊にならなくてはならないのである。
 これは、「父」と「子」との均衡・調和としての「聖霊」である。そして、これは、人間認識図では、第三象限に相当する。
 もし、そうならば、シュタイナーのキリストとは何を意味するのだろうか。それは、悪魔ルシファーではないだろうか。凹iである。
 シュタイナー自身も人智学が、ルシファーに傾斜していることを述べているのである。だから、シュタイナーのキリスト=悪魔ルシファーとは考えられることである。
 最後に、ついでに言えば、私はシュタイナーの占星術的人類史観は間違っていると思う。15世紀に新しい西欧の歴史が始まったとして、それは、双魚宮魚座)文化期を意味するとするが、これは、一般的に占星術的人類史観からはずれているのである。双魚宮魚座)文化期は、イエス・キリストから始まったと通常考えるのである。即ち、西暦ゼロ年あたりからである。
 やはり、ここにも、シュタイナーの欧州中心主義が見られるように思うのである。
 今はここで留める。