精神と自然Ⅱ:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超

精神と自然Ⅱ:「わたし」と気:内的な灯火と否定=不連続化による超越化


テーマ:ゾロアスター教マニ教:「光」VS「闇」


結局、元の木阿弥になったので、新たに考えたい。
 結局、人間的陰陽論と自然的陰陽論の衝突があり、それが齟齬となっているのである。
 別々に考えると、整合性があるが、統一しようとすると、齟齬が生じるのである。難問である。
 しかしながら、シュタイナー自身の考え方とは異なるとは言え、「わたし」=「悪魔」とすると先の結論(http://ameblo.jp/renshi/entry-10814991505.html )のように明快になるのである。
 別の考え方も可能であろうが、今はこの見方を作業仮説にしたい。
 結局、悪魔的自己認識方程式とは、


凸i*凹i=アーリマン*ルシファー⇒凸(物質)


となる。
 そして、これに均衡調和(キリスト)をもたらすには、否定する必要があるのではないだろうか。否定を凹とすると、


凹(凸i*凹i)=凸i*凹凹i=凸i*凸i⇒凹


or


凹(凸i*凹i)=凹凸i*凹i=凹i*凹i⇒凹


となるのではないだろうか。すなわち、超越的存在へと向かうのである。
 思うに、この否定とは、不連続化のことではないだろうか。そのままの積では、連続化、連続的同一性化するのであるから。
 思うに、人間以外の造物においては、連続化が自然の過程ではないだろうか。ただし、無意識、本能として、連続化以外に、差異共振領域、media pointが作用しているのではないだろうか。これが、造物の光の粒子である。
 人間の場合は、悪魔が支配しているので、積極的な、否定、不連続化の行為が必要である。
 整理すると、人間以外の自然の作用においては、陰陽の連続的作用が一般的であり、物質現象をもたらす。しかしながら、その連続化の影には、差異共振領域があり、そこにおいて、光の粒子、media pointがあると言えよう。
 人間の場合は、「二つ」の「わたし」=「二人」の「悪魔」なので、連続化は破壊的な作用をもたらすと言えよう。そして、それを乗り越えるには、積極的な否定=不連続化の精神的行為が必要とされるのである。
 では、否定=不連続化の精神的行為のためには、具体的にはどうするのか。それは、内的な光・灯火を個的に肯定することが前提であろう。これを連続化から切断すれば(否定=不連続化)、超越的均衡調和(キリスト)=超越光がもたらされると言えよう。
 内的な灯りが人間に存する光の粒子である。これが、闇の物質的身体を克服するのである。欲望が昇華して、元々の精神エネルギーへ帰還するのである。これは実用的に言えば、心身の健康を増進させると言えよう。


 性の消費とは、精神の消費であり、破壊である。

 
今はここで留めたい。





精神と自然:マニ教の視点と陰陽の視点との交流


テーマ:ゾロアスター教マニ教:「光」VS「闇」


今は簡単に触れるだけである。
 マニ教ないしグノーシス主義は、自然を悪と見るだろう。しかし、陰陽論は、自然に対してはニュートラルである。
 問題を簡単にしよう。自然は精神に基づくものである。東洋では、気が形成因である。この気をどう見るかが重要である。やはり、精神である。気の精神、気霊である。
 では、気とマニ教ないしグノーシス主義とはどう関係するのだろうか。ここでは、マニ教との関係をみよう。マニ教は物質という悪の中にも、善、光の粒子があると考えれる。この善=光の粒子は、気と通じるのではないだろうか。
 そう、気ないし気霊体は、確かに、差異共振光である。一つの超越光である。だから、マニ教の善=光の粒子に入ると言えよう。そう、気と精神は関係しているのである。何故なら、気は、精神の凹iで感知されるものであるからである。
 
 さて、次に、先の問題である精神と気の力学について検討したい。
 先に、z軸を考えたが、それから、y軸の差異共振を考えるのは、不整合であるから、とりあえず、それは考察対象から外す。
 問題を分かりやすくするために、感情ないし情感と気の関係について考察しよう。
 今、私は肚に気を感じている。つまり、凹iに気を感じている。つまり、凹iが気を感知するのである。また、よい音楽を聴くと、凹iやmedia pointが感銘を受ける。つまり、情感が凹iやmedia pointに存すると思われる。
 端的に、凹iは精神器官であるが、気は必ずしも、情感ではないので、気は精神よりも低位と考えられる。
 とまれ、ここで思考実験すると、陰陽において、太陽と太陰がある。前者は完全な陽で、後者は完全な陰である。これを、シュタイナー的に、固定された場合を考えると、前者がアーリマンで、後者がルシファーと考えることが可能であろう。
 これが「わたし」、「二つ」の「わたし」の根拠と考えられる。そうすると、それ以外の陰陽においては、生々流転、変動・流動が常におこっていると考えられる。それは、気の変化と見ることになる。
 そうすると、陰陽のベースには、気、気霊体の生々流転的変化・変動があり、それ以外に、特殊の、変化をしなくなった、静止した陰陽、双極体があるのであ り、それが、アーリマンとルシファーであり、それが、「二つ」の「わたし」の根拠ということになる。つまり、"凸i"(アーリマン)と”凹i”(ルシ ファー)の「二つ」の「わたし」が存することになる。
 思うに、陰陽は常に、変動以外にも、差異共振点、media pointをもっていると考えられる。差異均衡調和点である。それが、シュタイナー的に言えば、キリストである。それは、本来の超越的な光と一致するだろう。
 つまり、常に、キリスト=超越光は内的に、内面に存するのである。だから、「わたし」=自己(個)とは、内的に沈潜することで、キリスト=超越光に接することができるのであり、差異均衡調和精神に触れることができることになるだろう。
 さて、以上のように考えて、本題について考察するならば、人間以外の森羅万象においては、気霊体による生成で説明がつくが、人間の場合、「二つ」の「わ たし」が作用して、特異な精神様態が成立していると考えられる。この特異な精神(自己的精神)と気との関係であるが、やはり、連続的ではなく、不連続的だ と思う。
 しかしながら、上記したように、z軸を考える必要はなく、y軸に精神をおいて考えることができると言えよう。ガウス平面のままで正しいのである。
 とまれ、以上から、気霊体において、「二つ」の「わたし」ないしは「二人」の悪魔が組み込まれているのが、人間であるということになる。そして、これで、これまでの、PS理論の数式、
凹⇒(or ⇔)凸i*凹i⇒凸が維持される。
 では、問題は、特異なアーリマンとルシファーの形成とはいかなる力学に拠るのか。シュタイナーは、本来、善であったものが、進化を停止させたために、悪になったと述べているのである。この点については、新たに検討したい。

追記:以上において、私は、「わたし」と「悪魔」を同一視しているが、それは、シュタイナーの霊学からみると、極端である。確かに、「わたし」に「悪魔」が深く関わっているが、「わたし」=「悪魔」ではないのである。
 故に、再度、精神と自然について考察する必要がある。

シュタイナーノート 23●ルシファーとアーリマン

シュタイナーノート 21-30



新時代」とは、ポスト・オクシデント=ニュー・オリエントと言うべきであろう



テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教的西洋文明


今や、近代は崩壊した。非近代の時代であるが、考えると、それは、西洋の歴史に拠る考え方である。
 文明サイクルを考えると、西洋文明のサイクルが終焉を迎えていると考えられる。故に、ポスト・オクシデントの新文明サイクルが生まれつつあるのだ。それは、新母権的文明と考えられる。私はこれまで、新東洋文明と言ってきたが、同じことである。
 日本の問題は、男性のエゴイズムのシロアリに国家の大黒柱が食われてしまっていることである。日本において、魂が失せてしまったのである。
 やはり、戦後の連合国支配が利いているのである。魂を抜き取ったのである。支配としては、見事である。また、簡単に洗脳される国民も国民である。封建時代の因習が続いたのである。
 思うに、日本文化がある意味で、袋小路に陥ったのだろう。確かに母権文化であるが、それが創造的に発展せずに、デカダンスになり、超越的エネルギーを喪失してしまったのだろう。
 日本文化の場合、精神が(物質的)自然に拘束され過ぎている面が強い。結局、新しい超越的な母権文化を生み出すことができなかったのが、最大の弱点であろう。
 そう、感性が物質に拘束されているのである。それは、第四象限であろう。悪性である。
 シュタイナー的に言えば、ルシファーが足りないのである。ルシファーは個の原理である。これは、絶対的差異である。
 どうも、日本文化は母権文化と父権文化の二つに分裂しているような感じがある。言い換えると、二つの民族が存しているのではないだろうか。
 この点で、日ユ同祖論は棄てがたいと言えよう。母権的民族の日本と父権的民族の日本である。
 また、脱亜入欧イデオロギーが利いていると思う。また、それ以上のものが戦後の連合国の民族文化破壊戦略である。