精神と自然5:太陽凸iと太陰凹iの不連続性:超越絶対的即自と超越絶

精神と自然5:太陽凸iと太陰凹iの不連続性:超越絶対的即自と超越絶対的対自:マニ教とPS理論


テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子


凸i(「太陽」:陰陽の太陽)は、すべてと「わたし」が一致しているというか、「わたし」しか存しない精神モードであり、凹i(「太陰」:陰陽の太陰)は、逆に、「わたし」はすべてに「溶け込んで」いる精神モードと考えられる。
 有り体に言えば、前者が絶対的自我であり、後者が絶対的他者である。
 後者はいわば、非自我であるが、私はなんらかの「わたし」がそこには基底に存すると直観する。いわば、非自我的自己が存するのではないだろうか。先に述べた、「闇」の「わたし」である。そう、陰の「わたし」である。森羅万象に融け込んでいる「わたし」である。D. H. ロレンスがコスモスと呼んだものは、ここに関係しよう。
 言い換えると、前者は自己絶対主義の「わたし」であり、後者は宇宙主義の「わたし」である。
 前者はまた、超越的絶対的自己主義であり、後者は超越的絶対的他者=自己主義である。
 両者ともに、超越的存在凹に基づくが、前者においては、いわば、即自的モードであり、それを認識できないが、後者においては、対自的モードであり、それを感知しうるのである。ここに、両者の非対称性があると言えよう。
 故に、凹iと凹に基づく第三象限の意義があると言えよう。つまり、超越的絶対的存在と一如になっている自己領域が第三象限と考えられる。
 東洋・日本身体的精神科学において、肚を強調するのは、この点で、核心的である。何故なら、肚が凹iの領域と考えられるからである。
 しかるに、西洋文化は、凸iに傾斜しているために、肚=凹iの領域が認識できないのである。ただし、オカルト主義や神秘主義からわかるように、肚=凹i に接点をもつ精神文化はあるのである。ただし、反動的に、肚=凹iに傾斜すると考えられる。つまり、凸iに対する反動となり、肚=凹iに没入してしまうのである。例をあげれば、詩人・版画家のウィリアム・ブレイクがそうである。
 とまれ、凸i*凹iの双極的自己・個が確認できた。
 では、本題の精神と自然との連関性に関して、さらに考察を続けたい。
 東洋的身体的精神科学では、物質的身体に精神が、言わば、埋蔵されている、つまり、組み込まれているのである。これを測深して、発見し、涵養・陶冶することが、東洋的叡知である。(何度も述べるが、これが、明治近代化、戦後において、失われたのである。ロスト東洋的叡知約一世紀半である。失われた日本である。)
 この物質的身体と精神の関係力学を解明する必要がある。正確に言えば、有機体的身体と精神の関係力学である。
 結局、凸i太陽も凸i太陰も『気』=気霊である。つまり、気霊の特異点として、凸i太陽と凹i太陰を考えるのであり、本源的には、自己・個は『気』=気霊に属すると作業仮説する。
 故に、陰陽双極子において、精神が、自然として、組み込まれているのであり、精神的双極子の組み込まれた『気』=気霊の発現として、精神的有機体的身体としての人間的身体を整合的に説明することができる。
 これで、東洋的身体的精神がPS理論的に解明されたことになる。
 では、ここで、課題のシュタイナー精神科学の問題に返ると、明確にシュタイナー精神科学の自然との乖離性が露呈されるのである。
 即ち、霊=Spiritと、自然=有機体、物質体とが、『気』=エーテル体を挟んで、分離しているのである。明らかに、絶対的二元論であり、東洋的身体的精神科学とは異なるのである。(思えば、以前、その分離的二元論を指摘したことがある。)
 ここでマニ教の視点を入れて、考察すると、マニ教は、シュタイナー精神科学とは異なり、物質世界にも、精神の元素、『光』の粒子を入れているのであるから、絶対的二元論ではないのである。
 ここで、マニ教とPS理論を比較すると、前者の『光』の世界は後者の第三象限に相応し、『光』の粒子は、凹i=肚の意識をもつmedia pointに相応するのではないだろうか。
 そして、物質世界であるが、それは、第一象限である。それを、マニ教は闇の世界と見る。PS理論からは、連続的同一性体という仮構の世界として見るだろう。そう、言い換えると、PS理論的には、物質世界はいわば、バーチャルな世界、仮想世界である。
 だから、マニ教の闇としての物質世界はPS理論の連続的同一性体、バーチャルな世界・仮想世界としての物質世界はやはり、呼応していると言えよう。
 問題は物質世界を悪とするマニ教的視点である。PS理論は、物質世界を悪と見るだろうか。PS理論は、端的に、物質主義、唯物論を絶対的悪と見る。もっとも、物質科学の成果は否定しない。それは、物質という根拠による合理的科学だからである。
 だから、物質世界を物質主義、唯物論の世界と見るならば、マニ教の悪としての物質世界観にPS理論は呼応すると言える。
 Kaisetsu氏は、悪を第四象限に見ているが、この点とマニ教の悪の世界観を比較してみよう。
 現象において、自我は凸iと凹iとの連続的同一性体である。それは、物質世界とリンクしているのである。しかし、自我は、凸iの側面と凹iの側面があるのである。つまり、二重人格的様態なのである。
 ここで、例えば、本音と建前の二重性が生起すると言えようし、これが、近代的日本人の心性の一種の典型である。そう、腹黒いとは正に、凹iの側面に拠るのである。ということで、陰謀、嫉み・嫉妬、悪意、詐欺、等の悪徳は、自我における凹i的側面に拠ると考えることができるのである。故に、その面での悪を考えると、それは、正に、第四象限に存するのである。ただし、それは、物質世界の悪というよりは、物質世界における人間の悪である。
 マニ教の悪の世界観とは、やはり、この面を含んでいると考えられるのである。そう、マニ教の悪の世界観とは唯物論的悪と人間の反感的悪の両面を含んでいると考えられるのであり、PS理論と一致するのである。
 以上からシュタイナー精神科学を論駁・論破し、マニ教とPS理論との本質的共通性を述べた。


参考:人間認識図 (by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation)


Blake's The Lovers' Whirlwind illustrates Hell in Canto V of Dante 's Inferno