マニ教とケルト教とグノーシス主義:超越絶対的普遍的光:マニ教とPS

マニ教ケルト教とグノーシス主義:超越絶対的普遍的光:マニ教とPS理論


宗教の混乱は、本来、言語化できない超越性を言語化して、実体化してしまったことにあるだろう。(禅仏教はこの点を説いたが、レトリック的固執が強くなってしまった。)PS理論で言えば、第三象限を第二象限で表現しようとしたとになる。言語化は凸i凸である。脱言語化は凹i凹である。
ところで、今、そのことについてではなく、マニ教ケルト宗教(馴染みのない呼び方であるが、ケルト文化やケルト神話では、意味が充分つたわらないので、そうする。以下、ケルト教)とグノーシス主義について触れたい。
 先の考察から、ケルト教とアジア文化は深く関係しているとわかったし、Kaisetsu氏の視点から、海洋性と深く関係しているのも推察できる。あえて言えば、陸のシルクロードと海のシルクロードの両方にケルト教は関係していると思われる。
 おそらく、ここで、ケルト教とマニ教は関係が生じたと思われる。しかしながら、年代的には、ケルト教の方が古い。
 また、マニ教グノーシス主義は、年代的には近い。シュタイナーは、グノーシス主義と初期キリスト教との関係を説いているが、キリスト教ローマ帝国の国教となり、グノーシス主義を排除していくのである。そして、また、キリスト教ミトラ教と欧州において、覇権を争ったであるが、どちらも、本来太陽神崇拝である。
 直観では、ケルト教もマニ教の形成に与ったと思うし、根源的にはケルト教からマニ教が発達した可能性もあるだろう。
 しかし、問題は、超越絶対的普遍性の問題なのである。この超越絶対的普遍性を人間は「神」と呼んできたのである。ユダヤ教では本来、「神」を名指すことを禁じられてきたのである。超越性を物質界と関係する言語で表現することは、物資的実体化になるから当然である。
 とまれ、グノーシス主義の神界と物質界の二元論は、マニ教と通じると言えよう。問題は、ケルト教とマニ教の関係である。端的に言えば、自然の問題なのである。あるいは、自然と精神との問題である。
 二元論は精神と自然を対立させる傾向にあり、それが、実際には、キリスト教に現われている。
 しかしながら、本当の問題は、精神と物質の対立である。ケルト教はキリスト教を受け入れて、希有の自然的キリスト教を形成したと言えよう(もっとも、ケルトカトリック教会が正しいということではない)。
 もっと突き詰めれば、精神と物質主義との闘争の問題である。自然と物質主義は当然、異なるのである。自然は物質を含むが、物質主義ではないのである。
 結局、マニ教的二元論にとって、問題なのは、精神/自然に対する物質主義である。これによって、マニ教ケルト教が結びつくと言えよう。
 しかし、さらに問題は、父権的宗教以前の母権的宗教(例えば、古代オリエントの宗教:シュメール文化も関係しよう)である。ここにおいては、精神と性は結びついていたのである。D. H. ロレンスはいわば、これを探究したと言えよう。
 端的に言えば、それは、精神が身体へと顕現している宗教である。思うに、父権的宗教の意義は、以前述べたが、母権的宗教がデカダンスとなり、物質主義に堕落してしまったことに対して、新しい超越性を啓示したことである。
 だから、マニ教的二元論の視点から、母権的宗教の精神/自然性は本来肯定できるものであるが、その堕落した様態は否定することになるのである。ここで、マニ教と母権的宗教が結びついた。
 さて、今日、父権的一神教唯物論に堕してしまったことが大問題である。極言すれば、父権的一神教が資本主義の原理であるが、それは、短絡的である。何故なら、初期においては、超越性が発現していたからであり、それを「父」として、捉えたのである。しかし、その後、同一性主義(凸i凸:第一象限領域)の進展によって、唯物論化したのであり、資本主義を準備したとは言えよう。
 そう、西洋文明とは、強力な父権主義であり、凸iないし凸i凸が強大なために、超越性を連続化して物質と結合させてしまって、近代物質文明を形成したと言えるだろう。これを乗り越えるべく、西洋文化において、多様な領域で、様々な試みが行われきた。それは、一言で言えば、脱近代主義である。
 しかしながら、ある少数者を除いて、失敗したと言えよう。問題は、新しい超越性の発見にあったと考えられるのである。哲学において、それに近づいた、フッサールでさえ、超越性ではなく、超越論性という用語に留まったのである。西洋においては、ウスペンスキーは新しい超越性に気づいていたと言えようし、日本では、鈴木大拙西田幾多郎がそれに気づいたのである。
 父権的超越性から生まれた西洋文明であるが、近代主義によって、超越性を排除してしまい、また、脱近代主義の試みのはずであったポスト・モダンもそうであったのである。いかに、近代西洋において、同一性主義(唯物論)が強固であるかがわかるのである。
 しかし、日本において、新しい超越性を説くPS理論が生まれたのである。これとマニ教との関係を見る必要がある。
 これまで述べたように、日本文化は本来、母権的文化であり、それに父権的文化が参入して、新しい古代日本文化、二元論文化が生まれたと考えられる。それは極性文化である。
 しかしながら、ベースの母権文化が衰退して、表層の父権文化が強化されていき、終には、父権的「天皇制」が形成されて、狂信的な父権的物質主義文化が生まれてしまったのである。
 しかしながら、その父権的物質主義に対する闘争から、PS理論は生まれたと言っても過言ではないだろう。超越的精神性を追求していたのである。日本文化は母権主義であるということは、本来、感性、共感性が強いということであり、それは、凹iないし、凹i凹の文化であるということである。「水」の文化である。
 思うに、私に関する限り、この母権主義的性向によって、超越的精神を感受したと言える。つまり、言うならば、日本におけるマニ教的な志向が復活したと考えられる。それは、母権的マニ教と呼べるものである。それは、神道や仏教と結びついて、自然的性向をもつマニ教であり、物質主義を排するのである。
 そう、ここで、感覚、身体の問題があるが、霊的・精神的感覚、霊的・精神的身体は肯定されるが、物質主義的感覚、身体は否定される。
 言い換えると、ここで、芸術が問題になっているのである。そう、新しい芸術の可能性がここにはあるのである。新芸術日本の可能性があるのである。おそらく、日本の生きる道は、新芸術的文化・政治・経済を形成することではないだろうか。
 とまれ、以上で、マニ教とPS理論の関係がいくぶんわかってきたと言えよう。


宗教の混乱は、本来、言語化できない超越性を言語化して、実体化してしまったことにあるだろう。(禅仏教はこの点を説いたが、レトリック的固執が強くなってしまった。)PS理論で言えば、第三象限を第二象限で表現しようとしたとになる。言語化は凸i凸である。脱言語化は凹i凹である。
ところで、今、そのことについてではなく、マニ教ケルト宗教(馴染みのない呼び方であるが、ケルト文化やケルト神話では、意味が充分つたわらないので、そうする。以下、ケルト教)とグノーシス主義について触れたい。
 先の考察から、ケルト教とアジア文化は深く関係しているとわかったし、Kaisetsu氏の視点から、海洋性と深く関係しているのも推察できる。あえて言えば、陸のシルクロードと海のシルクロードの両方にケルト教は関係していると思われる。
 おそらく、ここで、ケルト教とマニ教は関係が生じたと思われる。しかしながら、年代的には、ケルト教の方が古い。
 また、マニ教グノーシス主義は、年代的には近い。シュタイナーは、グノーシス主義と初期キリスト教との関係を説いているが、キリスト教ローマ帝国の国教となり、グノーシス主義を排除していくのである。そして、また、キリスト教ミトラ教と欧州において、覇権を争ったであるが、どちらも、本来太陽神崇拝である。
 直観では、ケルト教もマニ教の形成に与ったと思うし、根源的にはケルト教からマニ教が発達した可能性もあるだろう。
 しかし、問題は、超越絶対的普遍性の問題なのである。この超越絶対的普遍性を人間は「神」と呼んできたのである。ユダヤ教では本来、「神」を名指すことを禁じられてきたのである。超越性を物質界と関係する言語で表現することは、物資的実体化になるから当然である。
 とまれ、グノーシス主義の神界と物質界の二元論は、マニ教と通じると言えよう。問題は、ケルト教とマニ教の関係である。端的に言えば、自然の問題なのである。あるいは、自然と精神との問題である。
 二元論は精神と自然を対立させる傾向にあり、それが、実際には、キリスト教に現われている。
 しかしながら、本当の問題は、精神と物質の対立である。ケルト教はキリスト教を受け入れて、希有の自然的キリスト教を形成したと言えよう(もっとも、ケルトカトリック教会が正しいということではない)。
 もっと突き詰めれば、精神と物質主義との闘争の問題である。自然と物質主義は当然、異なるのである。自然は物質を含むが、物質主義ではないのである。
 結局、マニ教的二元論にとって、問題なのは、精神/自然に対する物質主義である。これによって、マニ教ケルト教が結びつくと言えよう。
 しかし、さらに問題は、父権的宗教以前の母権的宗教(例えば、古代オリエントの宗教:シュメール文化も関係しよう)である。ここにおいては、精神と性は結びついていたのである。D. H. ロレンスはいわば、これを探究したと言えよう。
 端的に言えば、それは、精神が身体へと顕現している宗教である。思うに、父権的宗教の意義は、以前述べたが、母権的宗教がデカダンスとなり、物質主義に堕落してしまったことに対して、新しい超越性を啓示したことである。
 だから、マニ教的二元論の視点から、母権的宗教の精神/自然性は本来肯定できるものであるが、その堕落した様態は否定することになるのである。ここで、マニ教と母権的宗教が結びついた。
 さて、今日、父権的一神教唯物論に堕してしまったことが大問題である。極言すれば、父権的一神教が資本主義の原理であるが、それは、短絡的である。何故なら、初期においては、超越性が発現していたからであり、それを「父」として、捉えたのである。しかし、その後、同一性主義(凸i凸:第一象限領域)の進展によって、唯物論化したのであり、資本主義を準備したとは言えよう。
 そう、西洋文明とは、強力な父権主義であり、凸iないし凸i凸が強大なために、超越性を連続化して物質と結合させてしまって、近代物質文明を形成したと言えるだろう。これを乗り越えるべく、西洋文化において、多様な領域で、様々な試みが行われきた。それは、一言で言えば、脱近代主義である。
 しかしながら、ある少数者を除いて、失敗したと言えよう。問題は、新しい超越性の発見にあったと考えられるのである。哲学において、それに近づいた、フッサールでさえ、超越性ではなく、超越論性という用語に留まったのである。西洋においては、ウスペンスキーは新しい超越性に気づいていたと言えようし、日本では、鈴木大拙西田幾多郎がそれに気づいたのである。
 父権的超越性から生まれた西洋文明であるが、近代主義によって、超越性を排除してしまい、また、脱近代主義の試みのはずであったポスト・モダンもそうであったのである。いかに、近代西洋において、同一性主義(唯物論)が強固であるかがわかるのである。
 しかし、日本において、新しい超越性を説くPS理論が生まれたのである。これとマニ教との関係を見る必要がある。
 これまで述べたように、日本文化は本来、母権的文化であり、それに父権的文化が参入して、新しい古代日本文化、二元論文化が生まれたと考えられる。それは極性文化である。
 しかしながら、ベースの母権文化が衰退して、表層の父権文化が強化されていき、終には、父権的「天皇制」が形成されて、狂信的な父権的物質主義文化が生まれてしまったのである。
 しかしながら、その父権的物質主義に対する闘争から、PS理論は生まれたと言っても過言ではないだろう。超越的精神性を追求していたのである。日本文化は母権主義であるということは、本来、感性、共感性が強いということであり、それは、凹iないし、凹i凹の文化であるということである。「水」の文化である。
 思うに、私に関する限り、この母権主義的性向によって、超越的精神を感受したと言える。つまり、言うならば、日本におけるマニ教的な志向が復活したと考えられる。それは、母権的マニ教と呼べるものである。それは、神道や仏教と結びついて、自然的性向をもつマニ教であり、物質主義を排するのである。
 そう、ここで、感覚、身体の問題があるが、霊的・精神的感覚、霊的・精神的身体は肯定されるが、物質主義的感覚、身体は否定される。
 言い換えると、ここで、芸術が問題になっているのである。そう、新しい芸術の可能性がここにはあるのである。新芸術日本の可能性があるのである。おそらく、日本の生きる道は、新芸術的文化・政治・経済を形成することではないだろうか。
 とまれ、以上で、マニ教とPS理論の関係がいくぶんわかってきたと言えよう。


補記:上記の古代日本における母権的原基と父権主義の極性であるが、単純化して述べている。先の考察では、母権と父権の極性的文化以外に、父権主義的文化、ユダヤ印欧語族的父権一神教文化が参入して、衝突し、それが、記紀に表現されているということであったのである。
 日本においては、おそらく、母権・父権的極性文化と父権主義文化との均衡があったが、明治近代化以降、後者が支配的になったと考えられる。これは、母権・父権的極性文化が衰退したことと考えられよう。つまり、やはり、上述したように、母権的原基が衰退したということである。
 思うに母権・父権的極性という言い方はまだ矛盾がある。母権的戦闘性を表現したいのである。これが的確に表現できないのである。とまれ、母権・父権的という表現は止めた方がよさそうである。とまれ、仮に、母権・「父権」的極性文化としておきたい。後でこの点で検討したい。

 
The Light That Has Lighted The World - George Harrison
 

Living in the Material World by George Harrison