現代日本人の意識は相互反射自我主義だ:相互自我主義の力学:封建・

現代日本人の意識は相互反射自我主義だ:相互自我主義の力学:封建・父権的被植民地主義的近代的自我


テーマ:近代合理主義/唯物論/ポスト・モダン批判


現代日本人の意識の自我意識は、社会的に相互自我主義というべきものであるが、この基礎は何だろうか。
 当然、鏡像があるのである。自我を他者に映しているのである。つまり、凸iが凹iを認識しないで、凹iに凸iを反射させているのである。つまり、自我同一性化である。
 凸iは優位性を凹iに対してもつのである。理由は既述したように、父権的人間は凸iに傾斜しているからである。それは、優位性をもっていると先験的に自惚れている(ここで、悪魔アーリマンとルシファーの問題がある。これは後で検討。憾首相の空虚、虚栄心、妄想自我はこれで説明ができよう。つまり、凸iが他者凹iに優位だと自惚れているのである。しかし、真理は凹iにあるのであり、凸iの意識は、自己中心的である。)。
 この反射力学はどう数式化できるのか。この反射は、いわば、他者差異凹iを自我同一性凸iのフィルム、膜、カバーで覆うのである。つまり、ここには、自我凸iによる投影力学があり、それを解明する必要がある。
 凸i↘凹iにおける↘を投影を意味するとする。だから、↘は、自我投影、自我映写である。他者差異の「スクリーン」に自我を映写・投影・射影するのであり、真実は他者差異であるのに、そこに自我を見ているのである。
 これが、相互自我主義の力学であり、Media Pointの精神的フィルターの事象であるが、数式はどうなるのか。
 差異共振して、⇒凸(+1)となり、物質界、現象界が成立して、その外界凸(+1)と自我凸iが一致することになる。しかしながら、⇒凸は差異共振に拠るのであり、そこには、凸iだけではなく、凹iも存しているのであるが、それは無意識化されるのである。(付記:悪魔アーリマンが凸iで、悪魔ルシファーが差異共振ではないだろうか。)
 そう、ここには、自我盲目(他者盲目でもあるが)という事態が生起していると言えよう。結局のところ、自我同一性の数式は、凸i↘凹i⇒+1となるのではないだろうか。↘は*であり、又、自我傾斜という意味でもある。
 最後に、相互自我主義(間自我主義)が支配的になったことの力学を考えたい。これは、明らかに、近代合理主義ないし近代的自我が社会的に受容されたことを意味する。これは、当然、戦後社会に当てはまるのである。何故なら、戦前は、教養として、仏教や哲学等があり、また、素朴な母権主義を保持していたと考えられるからである。
 近代合理主義の社会的受容とは、当然、連合国(米国)の支配的意志に拠るものであり、帝国主義植民地主義的な権力意志(覇権意志)である。
 つまり、ここには、権力的な強制があるということであり、それは、個に基づくものではなく、正に、近代合理主義イデオロギーである。
 これを受け入れた日本国民とは、やはり、個(絶対的差異)を喪失した、父権的「天皇制」(父権的中央集権主義)の支配下にあると言えよう。まだ、封建主義的なのである。だから、封建的近代主義なのである。
 個であるためには、凹iの存在を確認する必要があるが、それは母権的日本人の原基にかなり強く存するものであるが、それが、認識されないように洗脳され、マインドコントロールされていると言えよう。
 そう、凹iと東洋的身体的精神は密接に関係しているのであり、その東洋・日本伝統的文化が否定されているのである。
 ここには、現代日本人の脆弱さがあると言えよう。封建・父権的集団主義(世間主義)なので、個であることを恐れるのである。
 そう見ると、やはり、日本史において、父権的日本(父権的「天皇制」)が長く、母権的日本(母権的天皇文化)を支配してきて、後者を抑圧して、歪曲してきたことが考えられる。
 思えば、不連続的差異論の段階で、高貴な差異と劣弱な差異の存在を指摘したが、これは、母権的差異と父権的差異と言い換えることができるだろう。
 父権的差異とは、実は、父権的自我を生み出すのであり、それが、支配して、母権的差異、母権的個を排除してきたと言えるだろう。
 アジア的日本が「ユダヤ」・印欧語族的日本に支配されてきたのである。
 とまれ、凹iを意識化する肚を取り戻すべきである。それは、超越的存在と通じているのである。当然、近代的合理主義は解体するのである。


追記:自我主義とは又、当然、暴力的である。それは、他者凹iを否定するからである。自我暴力である。
 この自我暴力の数式はどうなるのだろうか。言い換えると、自我の押しつけの力学である。
 やはり、凸i↘凹i⇒+1の左辺でいいのではないだろうか。凸iの自惚れた優越性があるのであり、自己の「半身」である凹iの意識を排除しているのである。
 そう、凹iの意識(肚の意識)であるが、それは、はやり、形成されなくてはならないだろう。とりわけ、男性にとってであるが、今日では、女性も必要である。
 では、凹iの意識(肚の意識)とは何だろうか。それは、正確には、超越的意識である。超越的個の意識であると思う。とまれ、形成について考えよう。
 通常の自我凸iは他者凹iを無視し、それを見つめようとはしない。そう、凹iの世界を知るには、精神の知恵が必要であるが、近代合理主義ではそれが欠落しているのであり、そのため、近代主義においては、他者凹iを排除すると言えよう。外的知識教育があるが、内的知識教育がないのである。
 肚を意識するとはどういう力学なのか。思うに、ここに悪魔ルシファーが関係しているのかもしれない。即ち、凸i傾斜を悪魔アーリマンとすると、意識エネルギーが悪魔ルシファーではないだろうか。
 とまれ、この意識エネルギーが凸iに傾斜しているときに、自我主義となるのであるが、この意識エネルギーは、凹iにも向かわせることができるのである。


 【以下は一つの思考実験:あるいは、意識エネルギーとは、陽エネルギーと陰エネルギーの両極があるということかもしれない。通常、陽エネルギーが使用されていて、陰エネルギーが否定されて、「うっ積」されているのではないだろうか。
 そう、陰エネルギーとは、正に、凹iのエネルギーではないだろうか。肚の意識とは、この陰エネルギーの自覚、覚醒ということではないだろうか。
 そう考えると、自我は陽エネルギーの作用であり、肚は陰エネルギーの作用であり、Media Pointで陰陽エネルギー、双極エネルギーが作用しているということになる。
 これは、また、現代物理学、宇宙論に関係するだろう。陽エネルギーが物質を形成し、陰エネルギーが反物質ないしは暗黒物質を形成するのではないだろうか。
 量子力学は思うに、凸iを視点で見ているのであり、まだ、凹iの視点を獲得していないのではないだろうか。
 とまれ、陽エネルギーと陰エネルギーは作業仮説であり、説明する必要があるが、今はここで留める。】
 

意識エネルギーが凹iに向かうとはどういうことなのだろうか。これは意志(又は志向性)の問題である。自己意志、個的意志がある。そう、これは、本来、自我意志かもしれない。
 とまれ、意志は、通常、自我様態に固持する。しかしながら、意志を肚に向けることができるのである、例えば、瞑想等によってである。
 つまり、意志を自我から肚へと志向させるのである。そのとき、肚と意志が衝突して、融合が起るのである。ここで、陰エネルギーが考えられるかもしれない。潜在していた陰エネルギーが意志と結合して、いわば、爆発するのである。ここで、自我「帝国」が破壊されて、脱自我の自己(個)が発生するのである。それは、宇宙的な自己でもある。また、超越的な個でもある。
 しかし、逆にそれへと傾斜すると、バランスを失い、外的自我認識が疎かにされると言えよう。(ならば、これが、ルシファーかもしれない。凸iが悪魔アーリマンで、凹iが悪魔ルシファーとなる。)
 だから、自我凸iと個凹iとの均衡が必要なのである。外的自己と内的自己とのバランスである。
 とまれ、意志(志向性)の肚への下降によって、肚の意識が形成される。それは、いわば、個意識(個識)であり、自我意識と対立する。
 ここで、人間は二重人格的になるのである。二重自己性が成立するのである。
 しかしながら、根底の自己は凸iに存しよう。つまり、逆転がここにはあるのである。自我は仮装・擬装・仮面であることがわかるのである。
 これはどういうことなのか。人間の本質は本来、凹iに存すると思われる。これが、どうして、凸i傾斜に転移するのか。
 どうも、陰から陽への転換が誕生において生じるのではないだろうか。換言すると、凹(-1)⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸(+1)という数式力学があるのではないだろうか。(最初の⇒は⇔とも書けるように思う。)
 ならば、どうして、陰から陽へと転換する必要があるのか、である。それは、精神から物質への転換が必要だからとういことではないだろうか。
 「必要」とはこの場合、問題を含む。言い換えると、精神から物質へと転換する力学がなんらか形成されたのであり、本来は、陰で留まっていたのではないだろうか。それが、陰から陽へと変じたことになるのである。しかし、これは、陰陽力学で説明できよう。陰が最初であるが、変転して、陽へと転化するということでいいのではないだろうか。
 つまり、人間の精神は元陰(凹)から、陰*陽の陰化(精神化)がなされ、その後、陽*陰の陽化がなされて、物質化・自我化が生起したということではないだろうか。
 この陰から陽への転換が人類史において、もっとも決定的であったと考えられる。これがゾロアスター教において、表現されていることと考えられるし、また、陰(凹i)を保持する精神主義として、マニ教が考えられよう。それは、陽化を否定するのである。
 ここで父権的一神教を考えると、それは、陰から陽へと転換する際に発現したものと思われるが、そのとき、原初的には、超越性が残るが、その後、自我・物質化に帰結すると考えられるのである。
 人類史は父権的一神教が成立して、また、西洋文明が形成されて、資本主義、唯物科学・技術が形成され、今日を迎えているのである。
 しかしながら、今や、陽の時代は過ぎ、新たな陰の時代になったと考えられるのである。物質・自我・凸iから精神・個・凹iへの大転移である。自我・物質文明から個・精神文明への進化である。
 個・精神が主となり、自我・物質が従となると言えよう。その霊主体従主義にあって、自我・物質は意味を変容させるだろう。それは、個・精神のための手段・ツールの位置に変ずるだろう。
 当然、資本主義も意味を失い、個的精神的共同体communionismの創造のための道具として経済が存するようになるだろう。
 この精神の大進化の時代にあって、一方では、個・精神・共同体が成長するが、他方では、自我・物質・資本主義が反動的力をもち、両者相克過程にあることになる。光と闇の闘争である。
 さて、ここで、復活してきたマニ教を考えるとどうなるのだろうか。陰が陽に反発したものが、マニ教と考えられる。


 【以下も思考実験:
これは、凹i*凹凸i⇒凹(-1)を意味するのではないだろうか。凹凸iの否定凹はわかりやすいだろう。思うに、凸i自体に否定性があり、ここではそれを凹が否定することになるのである。この場合の否定とは、同一性ということである。つまり、*の積は否定的同一性を意味すると考えられるのである。凸i↘凹 i⇒凸(+1)であり、他者差異凹iを自我凸iが否定的同一性で「取り込む」ということのように思われる。】


言い換えると、凹i、陰が賦活されると、それは、凸i、陽に反対するようになると考えられるのである。そして、それが、マニ教復活を意味するのではないだろうか。
 それは、凹i、陰の世界を肯定して、凸i、陽の世界を縮小させていくだろう。自我・物質・資本主義文明は収縮していくと考えられる。
 個的精神的共同体文明が生まれることになるだろう。