凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒

凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ


今は一言述べるだけだが、近代的意識において、凸iの自我が突出して、凹iの他者ないし無意識が忘却されていると言えよう。
 凸iは可視的に凸=物質に関わるが、無意識の凹iは不可視的であり、それは、凹=超越的存在に関係すると考えられるのである。いわゆる、神秘主義は、この側面が中心化したものだろう。
 凹=超越的存在は、神と言ってもいいし、霊と言ってもいいだろう。しかし、唯一神多神教のように一や多が入るのは、凸iの計算が入っていると思われる。だから、第二象限的である。
 そう、凸iは原光であり、凹iは原闇であるが、超越的存在とは、どうも、凹iと強く関わっているように思えるのである。なぜなら、凸iは「光」的であり、物質へと傾斜するからである。
 私が以前、超越光と言ったのは、思うに、凹iを介して、直感した凹が凸iの視覚に感受されたものかもしれない。
 とまれ、凹iと凹との関係を厳密に解明する必要がある。瞑想は凸iの凸を外すことではないだろうか(参照:現象学的還元)。つまり、凹凸iとなることではないだろうか。ならば、凹凸i*凹i⇒凹(-1) となるだろう。つまり、凹iを主体にすると、現象学的還元、あるいは、身心脱落が生じて、超越的存在が直感・直観されるようになるということではないのか。
 近代以前の人間は、凸iの自我は発達していなかったので、そのような心的様態にあり、超越的存在を直感していたのではないだろうか。宗教心・信仰心、あるいは、超越的感性・神秘的感性(民俗学)をもっていたということである。
 しかし、近代となると凸iが拡大・肥大化して、凹iが忘却されるようになり、超越的存在も否定されるようになったということではないだろうか。
 近代合理主義・近代的自我の縛りである凸iの傾斜から脱却する必要があるのである。トランス・モダン・スピリットが形成されるのである。
 しかしながら、近代合理主義・近代的自我で「自己形成」した人間は、凹iを肯定することが恐怖となるだろう。それはまったくの異世界であるからである。絶対的他者である。
 そう、民主主義も資本主義も、トランス・モダン化によって、同一性や物質主義から脱却することになるだろう。共同体的民主主義、共同体的資本主義となるだろう。今はここで留める。




備忘録:感覚は凸iにあるのか、凹iにあるのか:視覚とは何か


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ


凸iと凹iが共振して、光、⇒+1が生まれるというのは問題ない。
 問題は感覚、感性である。
 結局、凸iの感覚と凹iの感性があるのではないだろうか。近代は、前者に傾斜して、後者を軽視・無視していると思う。
 とまれ、差異共振によって生起した光を知覚するのは、凸iの視覚ではないだろうか。もっとも、これは、近代においてである。
 思うに、凹iによる視覚がありえるであろう。私が超越光と言ったものは、これが感知していると思う。
 整理すると、近代において、凸iの知覚に傾斜しているために、凹iの知覚が軽視・無視されると考えられるのである。
 例えば、光は差異共振様態であるが、凸iに傾斜した知覚は、外的知覚のみしかもたないだろう。
 しかし、凹iの「知覚」をもつなら、光は超越光となるのではないだろうか。そう、凹iの「感覚」はあるのであるが、それは、近代において、軽視、無視されていると思う。いわゆる、感情というのは、凹iの感覚ではないだろうか。
 とまれ、光とは原光と原闇との共振であるのであり、当然、凸iの知覚と凹iの知覚の二つの知覚が少なくともあるのであり、凸iの知覚は物質的視覚であり、凹iの知覚は精神的知覚であると言えるのではないだろうか。
 一般に「心」というとき、それは、この精神的知覚を意味しているのではないだろうか。
 しかしながら、凹iと凸iとは不連続であることを認識する必要がある。今日、凸iの主導によって、凹iが凸iと連続化されているのである。
 凹iと凸iの不連続化こそが、凹iが超越的存在と結びつくことを明確にすると考えられる。
 正に、これである。頭脳と感性の不連続化、これによって、凹iは凹と結びつくのである。