日ユ同祖論問題と古代日本:日本人の起源が今や最大のミステリー:付

『日ユ同祖論問題と古代日本:日本人の起源が今や最大のミステリー:付録:両部曼荼羅とPS理論』



安直な日ユ同祖論・期待論には納得がいかない
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# 古代、日本は朝鮮の植民地!?
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スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節


日本と倭は異なる。古代日本(7c以降)にとって百済人は居候
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任那日本府任那加羅任那加良)、安羅日本府、金官加羅、在安羅諸倭臣等任那諸國旱岐
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『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


私見では、先に述べたように母権文化がベースとなって、その上に父権文化が形成されたのが、日本であり、いわば、母父権文化が日本である。
 天皇制もこれがベースだと思う。しかし、日本史において、父権的要素が権力化して、ベースの母権文化を否定するような事態になったのではないだろうか。それが、たとえば、尊王攘夷的二元論である。
 思うに、本来の日本文化とは、感性(母権)をベースにした知性(父権)の文化ではないだろうか。
 しかし、父権性が独立的になるにつれて、この均衡文化は崩壊して、短絡的な文化、日本父権文化が生まれたのではないだろうか。
 そして、これが、日本社会主義、日本唯物論の起因ではないだろうか。



追記:父権的権力が母権文化を否定するような傾向はあったろうが、それより根源的に母権的心性が衰退、劣化する事態が史的に生じたのではないだろうか。折口信夫が日本人の宗教は鎌倉時代以降衰退し続けてきたと述べていたことは、この点と関係しそうである。
 神道的感性的精神と仏教の他者精神の融合が根源的日本文化だとすると、その母権的感性・心性・精神が、だんだん衰退していったと考えられる。
 宗教・神秘的に言えば、秘儀・密儀の精神、芸術的に言えば、象徴的視点が失われていったのではないだろうか。
 もっとも、秘教は陰陽道等に受け継がれたと言えようが、それが、迷信的なものと結びついていったのではないだろうか。
 日本において、秘教を発展させたのは、当然、空海である。その密教知性はすばらしい。
 思うに、空海から秘教的知性が停滞したのではないだろうか。というか、空海の偉業を発展的に継承する宗教「科学者」がいなかったのではないだろうか。
 最後に曼荼羅両界曼荼羅について言及すると、この内的宇宙論は、PS理論で言えば、根源的Media Pointに関係すると言えよう。名づけるならば、Media Point Cosmosである。
 では、金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅はどう説明できるだろうか。PS理論から見て、金剛界曼荼羅幾何学的模様がより興味深いだろう。どうも、ガウス平面や単位円や人間認識図/メディスン・ホイールを想起する。
 そうならば、金剛界曼荼羅は、内界を直観で捉えた美術ではないだろうか。
 では、胎蔵界曼荼羅とは何か。これは、内界から外界へと展開するときの多様性を描いたものではないだろうか(以下の下線部赤文字の説明が裏付けになるだろう)。思いつきであるが。
後で検討したい。


ファイル:Kongokai.jpg

九会から成る金剛界曼荼羅



ファイル:Taizokai.jpg

胎蔵曼荼羅

両界曼荼羅
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両界曼荼羅(りょうかいまんだら)は、密教 の中心となる仏である大日如来 の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現した曼荼羅 である。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置したものであり、「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。個々の「仏」の像を絵画で表したもののほか、1つの仏を1文字の梵字サンスクリット を表記するための文字のひとつ)で象徴的に表したものもある。
両界曼荼羅の起源と日本伝来 [編集 ]

胎蔵曼荼羅(大悲胎蔵生曼荼羅)は「大日経 」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経 」という密教経典をもとに描かれている。大日経は7世紀 の中頃、インド で成立したものと言われ、インド出身の僧・善無畏 (ぜんむい、637年 − 735年)が弟子の一行(いちぎょう、683年 − 727年)とともに8世紀 前半の725年 (開元13年)前後に漢訳(当時の中国語に翻訳)したものである。一方の金剛頂経は7世紀末から8世紀始めにかけてインドで成立したもので、大日経が訳されたのと同じ頃に、インド出身の僧・金剛智 (671 年 − 741年)と弟子の不空(705年 −774年)によって漢訳されている。なお、金剛頂経は、十八会(じゅうはちえ)、つまり、大日如来が18のさまざまな機会に説いた説法を集大成した膨大なものであるが、金剛智と不空が訳したのは、そのうちの初会(しょえ)のみである。この初会のことを「真実摂経」(しんじつしょうぎょう)とも言う。

いずれにしても、「大日経」と「金剛頂経」は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは、空海 の師である唐僧・恵果 (746年 − 805年)であると推定されている。恵果は、密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師李真に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年 (大同 元年)帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

空海が持ち帰った彩色両界曼荼羅(根本曼荼羅)の原本 および弘仁12年(821年)に製作された第一転写本 は教王護国寺 に所蔵されていたが失われており、京都・神護寺 所蔵の国宝・両界曼荼羅(通称:高雄曼荼羅)は彩色ではなく紫綾金銀泥であるが、根本曼荼羅あるいは第一転写本を忠実に再現したものと考えられている。
胎蔵曼荼羅の構成 [編集 ]

胎蔵曼荼羅は、詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅といい、原語には「世界」に当たる言葉が入っていないが、金剛界曼荼羅に合わせて、古くから「胎蔵界曼荼羅」という言い方もされている。 曼荼羅は全部で12の「院」(区画)に分かれている。その中心に位置するのが「中台八葉院」であり、8枚の花弁をもつ蓮の花の中央に胎蔵界大日如来(腹前で両手を組む「法界定印」を結ぶ)が位置する。大日如来の周囲には4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿 −むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩文殊師利菩薩 、観自在菩薩 、慈氏菩薩 )、計8体が表される。

なお、通常日本に取り入れられた曼荼羅の呼称について胎蔵界曼荼羅胎蔵曼荼羅の2つが併用されているが、密教学者・頼富本宏は『曼荼羅の美術 東寺の曼荼羅を中心として』において「曼荼羅の典拠となった大日経金剛頂経のいわゆる両部の大経を意識したものであり、空海もこの用語(注:両部曼荼羅)のみを用いている」「即ち金剛頂経には、明確に金剛界曼荼羅を説くのに対して、大日経では大悲胎蔵曼荼羅もしくは胎蔵生曼荼羅を説くのにかかわらず、胎蔵界曼荼羅と言う表現は見られないからである」と書いている。また頼富本宏は、円仁・円珍・安然など天台密教台密)が興隆すると修法のテキストにあたる次第類の中に「胎蔵界」と言う表現が用いられるようになり、両界曼荼羅胎蔵界曼荼羅の語が使われるようになったとする。
胎蔵曼荼羅
外金剛部院
文殊院



釈迦院







院 遍知院 金


中台
八葉院
持明院
虚空蔵院
蘇悉地院

中台八葉院の周囲には、遍知院、持明院、釈迦院、虚空蔵院、文殊院、蘇悉地(そしつじ)院、蓮華部院、地蔵院、金剛手院、除蓋障(じょがいしょう)院が、それぞれ同心円状にめぐり、これらすべてを囲む外周に外金剛部(げこんごうぶ)院、またの名は最外(さいげ)院が位置する。これは、内側から外側へ向かう動きを暗示し、大日如来の抽象的な智慧が、現実世界において実践されるさまを表現するという。

さらに、胎蔵曼荼羅は、中央・右・左の3つのブロックに分けて考えることが必要である。 図の中央部は大日如来の悟りの世界を表し、向かって左(方位では南)には聖観自在菩薩(観音菩薩)を主尊とする蓮華部院(観音院)、向かって右(方位では北)には金剛薩埵(こんごうさった)を主尊とする金剛手院(金剛部院。薩埵院)がある。蓮華部院は如来の「慈悲」を、金剛手院は如来の「智慧」を表すものとされている。
金剛界曼荼羅の構成 [編集 ]

日本で一般的に用いられる金剛界曼荼羅は、成身会(じょうじんえ)、三昧耶会(さまやえ)、微細会(みさいえ)、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会(ごうざんぜえ)、降三世三昧耶会の九会(くえ)から成る。これはひとつの曼荼羅の9つのブロックと考えるよりも、9つの曼荼羅の集合体と考えるべきものである。
九会から成る金剛界曼荼羅
チベット仏教金剛界曼荼羅
成身会一会のみから構成されている。


四印会

一印会

理趣会


供養会

成身会

降三世会


微細会

三昧耶会
降三世
三昧耶会

中心になる成身会の中尊は金剛界大日如来(左手の人差し指を右手の拳で包み込む「智拳印」をむすぶ)である。大日如来の東・南・西・北には阿閦 (あしゅく)・宝生如来阿弥陀如来不空成就如来 の4如来が位置する(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を合わせて金剛界五仏あるいは五智如来 という)。各如来の東・南・西・北には四親近菩薩(ししんごんぼさつ)という、それぞれの如来と関係の深い菩薩が配されている。

三昧耶会、微細会、供養会は中央の成身会とほぼ同様の構成をもっており、四印会はそれをやや簡略化したもの、一印会は他の諸仏を省いて大日如来一尊で表したものと考えて大過ない。

曼荼羅画面向かって右に位置する三会の曼荼羅はこれとはやや構成が異なる。理趣会は金剛薩埵を中尊として、欲望を擬人化した菩薩がこれを取り囲む。これは、欲望を単に煩悩として否定するのではなく悟りを求める心に昇華 すべきだという理趣経 の理念を図示したものである。 降三世会は仏菩薩が憤怒の姿を現したものとされ、代表して金剛薩埵が恐ろしい形相をした降三世明王の姿で描かれている。降三世三昧耶会は降三世会を三昧耶形 で描いたものである。これらの諸尊もすべては大日如来の悟りが形を変えて現われたものであり、すべては大日如来一尊に由来するということを表現したものと思われる。
金剛界八十一尊曼荼羅

なお、金剛界曼荼羅でも九会ではなく一会のみからなるものもある。金剛界八十一尊曼荼羅とよばれるもので、主に天台宗 で用いられる。

その構成は九会金剛界曼荼羅の成身会にほぼ同じであるが、三昧耶会、微細会、供養会にあらわれる「賢劫十六尊」という菩薩を追加し、四隅に降三世会、 降三世三昧耶会にあらわれる明王を描いている。いわば一会をもって九会を代表する構成といえる。

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85 」より作成
カテゴリ : 真言系仏教 | 曼荼羅