『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と

『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』


帰省先の田舎に居ると、自然と身体的心性との繋がりが感じられる。今更ながら、これは一体何なのであろう。すなわち、PS理論で解明するとどういうことなのだろうか。

 これまで、差異共振で説明してきた。たとえば、山や木との一如感をそれで説明してきた。「わたし」は「山」であり、また、「山」ではない。あるいは、「わたし」と「川」は一如である、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」でありつつ。

 「わたし」が凸iであり、「山」や「川」が凹iであり、両者が共振する。すなわち、凸i*凹iであり、結果が⇒凸(+1)である。思うに、凸は物質であるが、⇒凸(+1)で一如感、一体感を意味させることも可能であろう。(ここで、主体、主語の問題があるが、とばしておく。)

これが従来どおりの説明であるが、結局、自然との一如感とは、差異共振に拠るのであるが、結局、これも既述したことであるが、内的な凹iと外的な凹iとが一致するという点に求められよう。だから、主体の凹iと客体の凹iは同一であるということになる。これは、どういうことを意味しているのか。

つまり、人間身体において、自然と同一のものが存しているということである。これは、常識的なことを述べているように聞こえよう。つまり、唯物論的科学で言えば、物質が、自然と人間で同一であるということになるのである。当然、私が指摘したいことはそうではない。自然と同じダイナミズムが、人間内に存するということである。これも、常識的に、物質的ダイナミズムと見られるかもしれない。しかし、このダイナミズムは少なくとも「気」のダイナミズムと言うべきである。なぜなら、視覚を介するが、一如感は、不可視の心性であるから、物質的とは言えないからである。また、端的に、これは、生命感、元気と結びついているのである。

とまれ、凹iは自然、人間の内的エネルギーに関係する、あるいは、それ自体ではないだろうか。思うに、凸iのエネルギーと凹iのエネルギーがあるのである。易で言えば、陽エネルギーと陰エネルギーということになるだろう。両者が共振して、物質的現象界が生起するということである。

物質的科学では、物質的現象界を、凸iに傾斜した、つまり、同一性(ロゴス)に傾斜した視点で捉えて、凹iの力学、あるいは、差異共振の力学を欠落させていると考えられるのである。これは、近代科学、唯物論的科学の大欠点、大欠陥であると言えよう。これは、また、父権的科学と呼ぶことできるのである。(PS理論は、端的に、凹iないし差異共振の科学である。)

結局、あえて言えば、凹iの科学が必要なのであるが、凸iの科学を物質科学と呼ぶなら、それは感性科学、心的科学、精神科学、内的科学ということになろう。

今日、物質科学、外的科学が支配的で、アカデミックには、感性科学、内的科学が排除されていると言えよう。

そう、正しくは、凸iの科学と凹iの科学、そして、両者の統一として差異共振の科学がなくてはならないと考えられる。

とまれ、端的に、凹iの科学とは何か。これは、超越性と結びつく科学である。凹、−1と結びつく科学であり、非物質的科学、脱物質的科学である。今日、この超越的科学の理論が、公的には、認められていないのであるが、PS理論が、正に、それである。

しかしながら、量子論宇宙論等によって、現代科学は、実質的に超越的科学の領域に入っているのである。結局、唯物論という、悪魔の枠組みを乗り越える必要があるのである。換言すると、プラトニズム的転回が現代要請されているということである。精神が主であり、物質が従であるという視点である。これは、実は、霊的世界観であるが、PS理論は、現代科学をも説明できる、合理的な理論である。文化史的に言えば、トランス・モダン的転回、新古代的転回がここにはある。

ここで飛躍して、この転回の必然性について考えると、直観では、陰陽力学が根源で動かしていると思えるのである。端的に言えば、凸iの傾斜が起こり、それが、西洋文明を生み、物質科学を創出した。しかしながら、陰陽力学の視点では、凸iの傾斜、つまり、陽の傾斜の後には、凹iの傾斜、陰の傾斜が生起することになるのである。陽極まりて、陰に転ず。陽エネルギーが賦活された後、陰陽均衡原理から言えば、陰エネルギーが賦活されると考えられるのである。

では、凹iエネルギーの賦活によって、物質的世界観が乗り越えられて、新しい精神的世界観が創造されると考えられるのであるが、陽エネルギー、凸iエネルギーが⇒凸、+1と結びつくならば、陰エネルギー、凹iエネルギーは何と結びつくのだろうか。これは、自明である。既に、超越的科学と述べているので、それは、⇒凹、−1と結びつくと考えられるのである。人間認識図では、第三象限に当たる。思うに、差異共振の二つのタイプがあるのではないだろうか。陽・凸i主導の場合、⇒凸、+1となり、陰・凹i主導の場合、⇒凹、−1となるのではないだろうか。

以前述べたが、前者は凸i*凹i⇒凸(+1)で、後者は凹i*凸i⇒凹(−1)となるのではないだろうか。両者において、積の仕組みが異なるように思われるのである。(商も考えられるが、それはおいておく。)

 両者の違いは、回転にあるのではないだろうか。凸iが主導の回転とは、ベクトル・モードが凸、+1へと向かい、凹i主導のそれとは、ベクトル・モードが凹、−1へと向かうのではないのだろうか。これはまったくの作業仮説である。

前者は可視宇宙(現象界)を形成し、後者は不可視宇宙(仮に、ダーク・コスモス)を形成するのではないだろうか。

そう、今日、宇宙科学で問題になるダーク・マター(暗黒物質)、ダーク・エネルギー等は、この不可視宇宙に関るように考えられる。

文学的に言えば、D. H. ロレンスの『逃げた雄鶏(死んだ男)』の「暗い宇宙のバラ」とは、不可視宇宙を指しているように思える。

このように見ると、きれいにまとまるのであるが、作業仮説の力学がまだ解明できないのが、難点である。【ここで付け加えると、人間は、この二つの差異共振の結合体であると考えられる。脳(大脳)は前者により、内臓は後者であろう。そして、両者を視床下部が調整しているのではないだろうか。】

以前述べたのは、凹iが主導のときは、凹凹i=凸iとなるということである。これならば、凹i*凸i⇒凹凹i*凸i⇒凸i*凸i⇒凹、−1となるのである。

そして、逆に言えば、凸iが主導のときは、凸凸i=凸iであり、凸i*凹i⇒凸凸i*凹i⇒凸、+1である。

備考1:

思うに、一神教の一も、原点は共振の志向性にあるのではないだろうか。ただし、砂漠環境においては、「わたし」は岩だらけの山や砂漠とは共振せずに、自然を超越した何かと共振するということではないだろうか。これはとても興味深い点である。日本のような湿潤な自然環境の場合、共振する自然対象があるが【水の要素が重要であり、根源的物質の「水」について後で考察したい。参照:備考3】、その共振する志向性が砂漠環境の場合、対象が物質的ではなくなるということになろう。思うに、日本の場合、視覚を介して、共振する志向性は自然対象へと向かう、砂漠環境の場合、共振する志向性が自然を超越した何かに向かう。日本の場合、対象、凸、+1があるが、砂漠の場合、それがないことになろう。では、砂漠環境の場合、共振する志向性が向かう自然対象を越えた何かとは何か。PS理論では当然、凹、−1となる。思うに、日本においても、自然対象を越えた何かが感じられるのであり、それが、八百万の神々である。【神道は複雑であり、多様な神々が存し、独一神も存する。】しかし、私の経験では、なにか漠然とした不可視の超越感であり、それは、一つとも多数とも言えないような感じである。とまれ、砂漠環境の場合、共振する志向性が超越的であり、それが、唯一神ヤハウェアッラー)へと向かったことは否定できない。共振する志向性が超越的一へと帰着するとはどういうことなのだろうか。やはり、ここには、凸iの傾斜があるのではないだろうか。一として、捉えるという認識は、知的であり、凸i的であるからである。だから、人間認識図で言うと、第二象限に相当する。それに対して、神道は、第一象限と第三象限の両義性をもっているのではないだろうか。

 

備考2:

哲学的には、凹凹i*凸i⇒凹とは、他者凹iの肯定であり、他者が自己になるのである。これは、個=他者、ひいては自由=共同である。しかしながら、ここで問題なのは、他者肯定が形式では、他者否定である符合凹がつく点で、どう齟齬を解消するのかである。【この他者肯定が「否定の否定」の形式をとるのは興味深い。この点は後で検討したい。】他者とは本来、凹iであり、それは、自我凸iに対して、否定的であるし、逆もそうである。この相互否定関係を転換するには、この相互否定性を否定すればいいのではないのか。それが、凹凹i=凸iである。あるいは、凹凸i=凹iである。いわば、「否定の否定」である。とまれ、相互否定の否定が相互肯定であるということであり、凹凹iは他者否定ではなく、逆に他者肯定であるということである。これで証明された。では、この「否定の否定」の意味をヘーゲル哲学と比較しよう。この「否定の否定」とは、正と反の否定的事態に対する否定であり、正と反との共立ないし即非である。ヘーゲル弁証法では、合(ジンテーゼ)であるが、ヘーゲル哲学は、精神が正で、反の物質的同一性を止揚して、同一性概念の合を形成するのであり、それは、同一性哲学なのである。PS理論は、弁証法の正⇒反⇒合ではなく、(正*反)⇒反(正*反)⇒正の二乗である。これは、いわば、反弁証法、差異融合法である。

備考3:エレメントしての水であるが、それは、凹iに関係しているだろう。では、凸iのエレメントは何か。それは火ないし風である。しかし、風の方がいいように思う。

 地水火風の四大をPS理論で考えると、地が+1、水が凹i、火が−1、風が凹iではないだろうか。以前述べたが、聖書の創世記の冒頭は、神霊が風であり、凸i、神霊が上を漂う水が凹iであると考えられる。そこから、天地創造が為されるのであるが、やはり、凸iに傾斜していると言えよう。確かに、東洋的図式ではあるが、水、凹iが劣位になっているので、父権・西洋的と言えよう。