人類史における一神教の画期性:母権主義の切断:超越的父権原理と超

人類史における一神教の画期性:母権主義の切断:超越的父権原理と超越的母権原理:PS理論的統合へ


テーマ:一神教多神教⇒新多神教・新多一神教


先に、アジアの母権主義と唯物論について述べた。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727337837.html
 即ち、母権である凹iが自我凸iと癒着すること、連続化することが問題であった。
 そこでふと気づいたのは、一神教変革とは、母権主義的癒着・連続化を切断した、人類史における画期的なものであったということである。
 なぜならば、超越神である唯一神とは、現象界、感覚界、物質界から切断された神であるからである。凹iは感覚、感性、感情、身体、欲望的なものである。それに対して、超越神とは徹底的に否定的態度をとったのである。偶像破壊が象徴的である。可視的なものへの信仰、執着を否定したのである。(その点では、仏陀に似てないことはないだろう。)
 つまり、PS理論から見ると、凹iを否定して、凸i中心主義をもたらしたのである。言い換えると、凹iと凸iを切断したのである。そして、超越性とは-1であるから、人間認識図で言えば、第二象限の理知の世界を創造・構築したと考えられる。



by Mr. Kaisetsu with Mr. Seiseimon's cooperation


感覚、感情、感性、欲望等を排除した、超越神の世界、それは、超越的倫理・道徳の世界、超越的理性の世界と言えよう。(ここから、デカルト哲学やカント哲学は見えやすい。)
 とまれ、西洋の理性はこの超越神の論理から生まれたと見るべきである。(プラトン哲学もこの側面があるが、プラトンイデアイデア界を説いたのであり、超越的哲学を説いたのである。)
 そして、正に、この第二象限的要素がアジアに欠落していると言えよう。つまり、西洋の理性には、現象界から超越した側面があるということで、ここでは、凹iの要素を排除しているのである。故に、そこでは、アジア母権的な癒着、連続性はないのである。
 とまれ、それは西洋文明の知恵である。
 それに対して、アジア母権主義は、別の超越の方法があるのであり、それが、凹i→-1の道、第三象限の知恵である。
 西洋は凸iが主導的なのであり、アジアは凹iが主導的なのであるから、後者は凹iを活かした知恵を目指すべきでなのである。仏陀の知恵はそういうものであったし、神道の知恵もそうである。
 思うに、先に、古代ギリシアと古代日本との酷似性について述べたが、そのとき、根底の母権主義と侵入した父権主義との衝突、共立・共振を述べた。それは、新しい共立的民族・文化を意味すると考えられる。
 その後、ギリシア、日本において問題なのは、基底の母権主義の超越性(第三象限)が希薄となり、物質文化に囚われるようになったことではないだろうか。つまり、精神文化の衰退が生じたと考えられる。
 それに対して、ユダヤ教は母権主義を切断し、また、キリスト教は切断した上での母権主義の導入を説いたと考えられる。
 ユダヤ教の切断は実に画期的である。これは、母権主義、東洋主義を否定したのである。超越的理性の道を開いたと言えよう。
 そして、これとキリスト教によって、西洋文明が誕生したと言えよう。
 現代の問題は、西洋文明の帰結である資本主義の破壊性である。これは、以上確認したことから見ると、超越的理性をもっているのがわかるだろう。第二象限のその理性が、また、同一性価値=交換価値と結びついていると考えられるのである。つまり、超越的同一性価値=超越的交換価値になっていると考えられるのである。
 思うに、ポスト構造主義デリダドゥルーズは本来、これに対抗して、乗り越えようとしたと考えられる。前者はロゴス中心主義批判、そして、後者は同一性批判をしたが、結局、彼らは西洋文明の超越的理性原理を的確に把握していなかったために失敗したと言えよう。そう、西洋文明の超越的原理、それも、第二象限の原理を認識しない限り、西洋文明批判とその乗り越えは不可能であると言うべきである。
 ということで、西洋文明の帰結としての資本主義であるが、それは、他者凹iを欠落した経済システムがあると考えられる。
 否、正確に言えば、民主主義とは他者凹iの原理であり、それは「子」としてのキリストから発していると考えられるが、資本主義の同一性価値=交換価値の原理は、超越的理性(第二象限)から発していると考えられるのであり、ここには、母権的原理と父権的原理が分裂的に相克していると考えられる。
 前者は生命的な原理であるが、後者は破壊的な原理であり、後者は資本主義において主導・中心的であるために、世界は破滅の危機にあると言える。
 結局、超越的父権的原理が支配した現代グローバル資本主義世界を乗り越える方途は、超越的母権原理の復活であると考えられる。
 凹iから-1の超越界への方向を復活させる必要がある。それが、シュタイナー的には霊の道であると言えよう。PS理論的には直観の道であろう。
 それは、キリストの道であるが、キリスト教は父の原理に支配されているので、聖霊の道と言うのが的確である。父に支配された子の道ではない、聖霊の道である。それは、Media Pointの道でもある。
 何故、超越的母権原理が必要から言えば、当然ながら、超越的父権原理は、他者を否定する利己主義、自己中心主義であるからである。自由主義とは前者である。私が説く共同資本主義とは後者のエコノミーのである。
 とまれ、これは、個をもつ共同資本主義であり、社会主義共産主義ではない。
 思うに、超越的母権原理を土台にして、超越的父権原理を活用する様態の個的共同資本主義が可能である。それはトランス・モダン・アジア的資本主義の道である。
 
追記:構造主義の根源も、超越的父権原理、第二象限ではないだろうか。


追記2:以前示唆したが、カント哲学の問題は、超越性と超越論性が分離したままであることである。理性と言ったとき、超越性に関わるものを実践理性と呼び、純粋理性を超越性と同一性に関わらせていて、その矛盾(アンチノミー)を指摘するに留まっているのである。
 超越論性とは超越性と同一性との折衷的概念であると考えられる。言い換えると、混淆であり、連続性である。ポスト・モダンはこれを引いている。というか、Media Pointの同一性に偏した精神的フィルターと言えるだろう。
 フッサール現象学とは、凸iの志向性を発見したことにあると思う。それは、実質的に凸i*凹iである。ただし、凸iの志向性を超越論的主観性と呼んでいる。しかし、超越的主観性と呼べば、より正確であったろう。
 そして、俗物のハイデガーであるが、彼は、凹iを存在として、それと物質+1との関係様態を探求したのであるが、実際は純粋な凹iではなく、凸iの主観性をもった存在であり、その点で、凹iと凸iが未分化・混淆していたと思われる。そのため、凸iと物質+1との結合が主要となり、いわば、唯物論化した存在論なのである。そのために、純粋存在である凹iを極めることができなかったと言えよう。とにかく、非常に、不純な、中途半端な哲学である。
 死に臨む存在とは、実は、超越界への漠然とした予感であり、凡庸である。


追記3:もし上述のように超越的父権原理を考えるならば、古代日本に侵入した父権的民族を失われたイスラエル十支族とすると、古代日本において、超越的父権原理と超越的母権原理が衝突して、古代ギリシアを超えるような即非的原理が生まれたと考えられよう。
 それは、父と子の即非論理であり、正に、聖霊の原理ではないだろうか。日本文化とは聖霊文化ということになる。トランス・キリスト教的文化である。