アジアのトランス・モダン:母権主義と唯物論:自我の不連続化に拠る

アジアのトランス・モダン:母権主義と唯物論:自我の不連続化に拠る母権的精神の


テーマ:トランス・モダン社会/新共同体創造的構築


今は余裕がないので、ざっと書くが、先に、母権主義と唯物論との関係を述べたが、これを精緻に解明する必要がある。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10727100942.html
 アジアは母権主義である。しかし、近代において、アジア(だけではないが)は西欧の帝国主義によって支配された(日本は例外的である)。
 それに対抗するために、唯物論的政治革命が起きたと言えよう。この精神的力学は、先に述べたように、母権主義である。凹i主導的である。
 凹iに拠る不正義への反発であるが、これは、思うに、本来、-1と関係している。しかしながら、近代においては、母権主義国は凹iと凸iとの関係が未分化であったと思われる。
 そのために、凹iに反発は凸iや+1と関係するようになるのであり、それが、唯物論、「マルクス主義」と結んだと考えられるのである。それがイデオロギーとなるのは、凹iのもつ-1(超越界)との関係からと思われる。
 絶対・超越的であるために、未分化の、故に、連続的な凹i*凸iは、不正義への反発の唯物論大義化において、イデオロギーになったと考えられる。
 西欧ないし米国においては、近代の発展が緩やかだったために、自我凸i(父権主義)は、無我凹i(母権主義)から、比較的に分離するように形成されていき、近代的自我、近代合理主義を形成していったと考えられる。いわば、ある種の不連続化が形成されたのである。それが、欧米の個人主義と呼ばれるもののベースであろう。しかしながら、PS理論から見ると、その不連続性は不十分であり、自我凸iが個を支配していると考えられる。
 ということで、アジア(ロシアを含めて)においては、自我凸iと無我凹iとが未分化・連続的であったために、正義への闘争が、唯物論左派イデオロギーに囚われた大惨劇を結果したと考えられる。
 ここで想起するのは、精神学者ルドルフ・シュタイナーの言である。精神世界の修行には、近代科学的教養や常識・健全な意識が必要があると説いていることである。
 この意味は凹iと凸iとの連続性に支配されない、知性、意識の前提の必要であると考えられる。
 真の知性とは、本来、感情である凹iとの連続性から脱却したものである。(とは言え、凹iのもつ感性は肯定するのである。)
 ということで、シュタイナーも自我的知性の不連続化を説いていたと言えよう。
 結局、アジア・東洋にとって、脱近代として、超越的精神の独立の形成が根本的であることがわかる。
 本来、資本主義も、凹iから切り離された凸iの合理性によって営為されるものである。しかし、日本の国家資本主義(社会主義)を見てわかるように、日本も母権主義の国なので、凹iの癒着があるのである。そのために、自由な自我に拠る、本来的な資本主義、個的資本主義の形成が阻害されているのである。
 そう、自由な自我、不連続な自我とは、ほぼ個と言っていいだろう。ここには、他者である凹iとの共立・共振性である共同体への志向があるのである。
 今はここで留めたい。