感覚的事物は濃縮された思考存在である(シュタイナー)

感覚的事物は濃縮された思考存在である(シュタイナー)


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ



さすがシュタイナーの四大著書の一冊とあって、内容が深く、また、充実している。
 きわめて本質的な哲学が述べられている。例えば、「感覚的事物は霊界から生じたものであり、霊的本性の別形式に過ぎない。」 (p. 166)という認識である。
 端的に言えば、霊(精神、イデア)から物質が生まれるということである。
 そこで思ったのは、霊とは体(身体)の一種である。そして、先に霊界とは、Media Pointの虚軸ゼロ点(MP1)にあるだろうと述べたことを考えると、どうも、霊界は、マイナス1(ダーク・マター、暗黒物質)と密接に関係していると思われたのである。
 差異共立を差異反共振とすると、凸i*-凹i⇒-1になるのである。つまり、霊界を左辺とすると、それは、マイナス1のダーク・マターを志向するのである。
 そうすると、霊界はダーク・マターを形成すると言えるし、また、マイナス1を根源とすると、やはり、ダーク・マターから霊界が生まれて、また、そこへ回帰するということではないだろうか。
 今は問題提起に留める。


追記:差異共立は和であり、ゼロであるので、マイナス1とするのは、修正しないといけない。
 思うに、差異共立とは、差異反共振と差異共振の平衡状態ではないだろうか。
 大雑把に言えば、マイナス1とプラス1との中間である。
 とまれ、脱連続性力学について考える必要がある。差異共立と差異反共振は異なるものである。
 思うに、エネルギー保存則から言えば、プラス1の物質に傾斜した場合、当然、マイナス1の「反物質」へと反作用するはずである。
 そのとき、思うに、マイナス1と和のゼロとが生起するのではないだろうか。つまり、マイナス1への反転とは、当然、和のゼロを意味すると思えるからである。ならば、ゼロとマイナス1とは一致することになるだろう。
 結局、私のイメージ、ないし、直観では、連続的同一性に対して、脱連続的同一性が作用するということである。結局、ポイントはそこをどう解明するかである。
 私の直観では、差異共立様態が生起するのは確かである。それと差異共振的同一性とが齟齬を来すのである。シュタイナー的に言えば、霊界と魂界との相違である。
 私見では、脱連続性=差異共立(「脱構築」)とは、Media Point の原点への回帰を意味するのである。
 今、閃いたが、根本は、凸iと凹iの二元性である。究極的な二元論である。
 だから、同一性志向によって、物質を形成させた後、その原二元論は残ると思われるのである。
 つまり、凸i*凹i⇒+1を基盤にしたとき、帰結として、+1を形成した場合、それは、差異共振作用に拠ると思われるのである。
 結局、私が考えていることは先に述べたことにあるだろう。結局、MP1(Media Pointの虚軸ゼロ点)とMP2(Media Pointの実軸ゼロ点)とは不連続であり、MP1⇒MP2へと転化したときは、物質が形成される。
 しかし、差異共振作用が終わると、つまり、差異共振エネルギーが消尽すると、元々の差異共立が「出現」するようになると思われるのである。
 だから、差異共立と差異共振を明確に区別した方がいいと思われる。即ち、凸i#凹iと凸i*凹iである。
 連続性力学の場合、差異共立が差異共振へと転換して、本来の差異共立が喪失される。つまり、不連続的差異の共立が共振化して、同一性へと転換されるのである。
 この事態・事象をどう捉えるべきか。端的に、MP1とMP2とは、本来、不連続であるという認識がなくてはならないということではないだろうか。(思うに、MP1をデュナミス、MP2をエネルゲイアとして、区別することは可能であろう。)
言い換えると、MP1こそが、基盤・基礎・根源・起源・源泉・原基であり、そこから、MP2と同一性が生起するということではないのか。
 あるいは、差異共立の和であるゼロが基底であるということである。
 とまれ、もう一度、直感で考察しよう。連続的同一性とはまったく別に、差異共立が存しているのである。ただし、最初は、認識的ではなく、現実的にである。
 言い換えると、個としての、絶対的差異としての「わたし」ichの存在があるということである。それは、肚の存在が原基にあると言えよう。(もっとも、ここは、正確な言い方ではない。肚は個、「わたし」の原基であり、「わたし」そのものとは異なるだろう。つまり、これは、凹iとしての絶対的差異と言えよう。つまり、「わたし」は、絶対的他者の凹iを原基にしているということになろう。この問題は後で検討したい。思うに、認識に対する存在という他者ということかもしれない。)
 今思ったが、差異共立が精神の基底であり、差異共振が物質的身体、又は、自我的身体の土台ではないだろうか。(今、又、思ったが、差異共振がエーテル体であろう。「気」である。そして、⇒+1が物質形成である。だから、⇒がエーテル体であり、+1が物質である。)
 ここで発想を変えて、差異共振において、凸iが主導的であり、その後の反転においては、凹iが主導的になるのということも考えられるだろう。
 つまり、最初に、凸iの傾斜があり、その後、反作用的に、凹iの傾斜が生じるのであり、それで、凸iと凹iとのバランス、差異共立が再構築されるのかもしれない。つまり、陽が先行し、その後、陰が作動するということである。
 この考え方は、実際に即しているだろうし、力学的にも、説得力があるだろう。つまり、法則的に、陽が先行し、その後、陰が主導するということである。そして、交互に継続されるのである。
 先の考えをA案とし、この考えをB案としよう。だから、A案とは、差異共振が発動するが、それが消失して、元の差異共立が発現するということである。
 それに対して、B案は、差異共振において、先に、凸iが主導的になり、凹iが抑圧される。しかし、反作用的に、凹iがその後主導化して、凸iと凹iとの均衡が志向されるというようなことになろう。B案は弁証法的に見えるが、合ではなく、共立が志向される点で異なるのである。
 今の感じでは、B案の方が適切であるように思える。そうすると、凸iとは、認識主体であり、凹iとは被認識客体ではないだろうか。そして、感情・情感であるが、それは、凸iと凹iとの共立や共振における凹iの知覚ではないだろうか。
 簡単にB案をまとめると、原基の差異共立において、最初、エネルギーの賦活は、凸iにおいて作用して、その結果、差異共振エネルギーが発動される。そして、それは、連続的同一性の知覚をもたらす。その後、エネルギーの賦活は、凹iに転換して、最初の連続的同一性を解体する。しかしながら、凸iと凹iとの分裂が生起すると考えられる。言い換えると、連続性と不連続性との分裂である。しかしながら、不連続性とは、差異共立、更新された差異共立であり、それは、差異共振に拠る連続性とは異質なものであることを確認する前提が生じると考えられる。
 換言すると、最初、原差異共立があるが、凸iが優位となり、差異共振化して、連続的同一性が形成される。その後、反作用的に凹iが優位となり、同一性と分裂する。
 結局、凹iの優位とは、凸iとの均衡を志向していると言えよう。うまり、凹iの優位は連続的同一性の「秩序」を解体して、そのため、凸iと凹iとの関係を志向するようになる。それが、更新された差異共立を意味すると考えられる。
 さらに言い換えると、凸iの優位とは初期・前期近代であり、凹iの反転的優位とは、後期・末期近代(ポスト・モダン)であり、両者との共立的均衡形成が脱近代、トランス・モダンと言えよう。